2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


選外優秀作品

柳澤 和彦 様 『親友の肺がん死』


 現下に流通している五千円紙幣の肖像「樋口一葉」の先祖と、自分の先祖は親戚だと自慢して憚らない「ひぐち看板塗装店」の社長樋口文蔵は、私の幼馴染みで然も同じ町内に暮らしていた。
 六十八になって間もない時文蔵は、二男の嫁が地域の嫁仲間と出掛けた旅先の土産“黄な粉餅”を食べながら、黄な粉をヘタに口(くち)で息と一緒に吸ったところ、粉が呼吸器系統の妙なところに入ってしまい、咳き込んで目がまっ赤になった。それ自体は誰にもありそうな大したことではなかったが、そのあとに吸った大の嗜好のタバコのケムリに咳き込み、畳の上で猛烈に悶え苦しみ暴れまわった。それは胸間の激しい痛みのせいだったようだ。
 しかし、文蔵の妻志津(しづ)は、手のほどこしようもない文蔵の狂態に冷静な目を向け、(肺がん?)かもしれない、と心に思ったという。
 志津は、娘時代にこの街の“花街(はなまち)”で、左褄(ひだりづま)(芸者芸妓の異称)を取っていた。その何年か後、文蔵とめぐり逢い、請(う)け出されて文蔵の妻になった。
(肺がん?)かもしれない、と疑った志津の思いは、すぐに的中することになるが、文蔵が胸痛に耐えている間は、まだ疑いの段階だった。
 文蔵の仕事がペンキ類を扱い、その上に大の喫煙者となれば、私も文蔵に肺がんの疑いなど、とっくに抱いている。多分、志津の思いと共通していただろう。共通という意味は、ペンキ・塗料・顔料に含まれる成分が人体に影響ないか、ということである。
 端的にいえば、文蔵は有機物質を吸いつづける環境に生まれ、育ち、成人し、タバコを覚え、志津と結婚し、志津との間に二人の男子をもうけた。そして通算五十年間、タバコを吸いつづけ、微量でも塗料からの微粒子も人体に取り込んだ。だから何だ! と塗装業界の人に誹(そし)られるかもしれないが・・・・・・
 文蔵の父はさきの戦争で日本が敗戦となるまで、横須賀の海軍工厰に徴用されていたが、敗戦と同時に出されて故郷へ戻り、塗装業を起ち上げる。そして、成功した。しかし文蔵が四十八の時、無喫煙で仕事一途が何より取り柄だった父が「肺がん」・・・・・・で死んだ。〈腺がん〉という肺がんだった。母のほうはそれより五年前の冬「くも膜下出血」で呆気(あっけ)なく死んでいる。
「おれもなんだか呼吸器困難、とやらで殺(や)られるかもしれねぇな、はははッ」
 と、父の死後間もなく、死因が気味悪く思えたのか、不貞腐れ嗤いをしながら私にほざいた。
 あの時から丁度二十年後文蔵は、タバコが主原因の「肺がん」にとりつかれ、この世を去ってしまうのだが・・・・・・

 文蔵は何年か前頃から、塗料などに含まれる目には見え難い微粒子などを人体が取り込まない、もし取り込んでも人体に殆ど影響が及ばない程に優れたマスクを装着していた。また最近開発の花粉や粉じん、有害な微粒子の人体への侵入を“鼻まわり”で阻止するという、顔面にフィットした立体構造の“竹炭入りウレタン”製のマスクを、やっと雇用できた大事な若い従業員の健康第一を考え、徹底して装着を義務付けていた。
 しかし、文蔵自身は、前二十年乃至三十年間は、父同様に殆ど無防備無対策という常態だった。
「平気の平左」といって肉体を誇示し、だから夢中に働いた。

 私が思えば・・・・・・それはやむをえなかったろうが、この間の健康管理の無さが、やがて男の平均寿命に遠く及ばない、生きることをさせなかったことにつながったのかもしれないと。
 文蔵は、咳き込むのもつらかったが、そのたびにともなう胸の痛みには耐えられなくなった六十八の一月の或る日、とうとう循環呼吸器が専門の医院を訪ねる。そこで医者からレントゲン写真を見せられ「これが病巣ですよ」と同時に「肺がん」と告げられた。
(やはり・・・・・・!)という心配が俄然文蔵の心にむくれ出て、思わず膝を折りそうになったが、医者の事務机に両手をつき、かろうじて我が身を支えた程衝撃は大きかった。
 文蔵の喫煙歴は優に五十年を超えていた。これは並みの期間とはいえない。私の思いをいうなら、文蔵は、タバコの価格に関係なく喫煙を続行した、となる。五十年もの喫煙では治療の必要な慢性疾患の「ニコチン依存症」にならないほうがおかしい。文蔵はこの病気を知っていたかもしれないが、その先の「肺がん」は漫然とした認識程度だったようだ。「禁煙」の関心度などなかった、といっていい。父の死因がタバコによらない「肺がん」だったことが、文蔵の気持の中には「たばこ」で死ぬという考えも希薄だったようだ。いってみれば父の死は、文蔵の「たばこ」嗜好に灰色の拍車を限りなくかけたといえなくなかった。
 文蔵の肺がんは末期に至ると、胃に転移して「胃がん」を併発する。抗がん剤をはじめ抗生物質の薬剤の点滴投与がつづき、一時は肺も胃もその上部の食道にも改善の兆しが見えた・・・・・・が、社会復帰の見込みはなかった。
 改善の兆しがあった時、妻志津は白面と化し幼児程になってしまった文蔵の腕や指を撫でまわし、「よくなるよ、おとうさん」と素直なよろこびように、傍目(はため)
の私には痛々しかった。
「やることが一杯あるぞ文蔵。日光東照宮へ参拝ものこってる」だが文蔵は力(ちから)なくわらっただけだった。
 加療中の患者が一時的に改善の兆しが見えたりするのは、薬剤効果でそれは束の間であることを、私は自分の経験から知識としてもっていた。
 それは五十数年前の高校時代に遡(さかのぼ)るが、私はクラブ活動で野球部だったが、文蔵は私の注告もものかわ不良上級生の仲間にまざり、「“ヒロポン・モク・サケ部”」だと嘯(うそぶ)いた。モクは、煙を雲にかけた倒語、タバコである。文蔵の喫煙も飲酒も高校の時からはじめてはいたが、早いほうではなかった。だが検番(置家)通(がよ)いは早かった。

 文蔵がニコチン中毒であることは、家族もわかっていた。このことでは最早家族との口論のもとにはならなかった。地方公務員の長男が、「長生きできないぞ」と、どのようにかのようにウンヌンカンヌンいっても、文蔵は聞き耳をもたなかった。が、家族はせめて文蔵が男の平均寿命までは生きて欲しいと、タバコをひかえるように促す説諭も、馬耳東風と聞くだけだった。
「たばこはうまいからなぁ。はははッ」と。
 しかし、家業がつづいているからには、文蔵は経営者・社長であり家族にとっては大黒柱である。肺がんの痛み苦しみから逃れたいなら死ぬしかないなんて、家族の誰もそんな思いや願望を抱く筈はない。家族の誰より一番長いつきあいの私が、更に思う筈はなかった。数少ない兄弟同様の親友を喪(うしな)ってしまう場面など想像する筈もない。
 ところが、文蔵の哀しい最後の日を私は自分の目にしていった。文蔵が「肺がん」にあの世の鬼籍へ連れ去られる瞬間(とき)を確実に目にしたのだ。文蔵の肺は、“灰皿(はいざら)”だった。がんは全ての臓器に転移して全身が“がんの巣”状態となった、と認められた時、主治医は延命医療から「緩和医療」に切り換えた。
 この治療は、かなり早い時期から組み込まれていたようだ。最末期の苦しみをやわらげながら余命を全うさせる。この間に、やり残しを片づける“時間稼ぎ”の方法だった。
 黄疸(おうだん)が暫くつづき、不吉な予感をひしひしと覚えていた私は、その日、文蔵の妻志津を伴い個室の病室を訪れる。文蔵は人工呼吸器(マスク)を自ら外し、私の手をもとめ、
「・・・・・・こんなザマになった。わらってくれ。なにもかもあとの祭りだ、ははは。頼みがある。おまえは鰥夫(やもめ)だな。志津のことだ。後の面倒を頼む。おまえしかいない。志津が心残りでたまらん、頼む・・・・・・」
 と細い力で握りしめる。志津には、そうしろ、と哀切の涙を見せた。志津は文蔵の意を汲み、「そうする。そうするから心配しないで、おとうさん!」
 もうこの時点で元気付ける言葉は無用だと私は悟ったから、ほかに遺(のこ)す言葉はないか、と文蔵の耳元で訊ねる。人工呼吸器をまさぐりながら文蔵は首を横に振った。そして目を閉じかかる。
「おい文蔵、目を塞ぐな、文蔵!」
「おとうさん、生きておとうさん!」
 しかし、文蔵は喉をもぐつかせる。痰(たん)がからんだのだ。胸をわなつかせ、もがきはじめた。
 この様子をナースルームのモニター画面で捉えたのか、主治医とは別の医師と三人の看護師が、わらわらと病室に駆け込んで来ると、医師が高い声で「樋口さん、文蔵さん」と連続して呼び掛けたが、文蔵は、もう反応しなかった。医師も胸部圧迫の動作をやめ、腕時計を見て沈痛な顔を私と志津に向け、深々と頭を下げたのだった。