2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる
選外優秀作品 |
種田 千里 様 父のいない成人式
寒中というのに、病室はむっとするほどの暑さだ。酸素吸入用の加湿器が、蒸留水をポコポコ泡立てている。吸入器の上で踊っている小さな球は、目盛りの最上部周辺を上下する。酸素は最大で十リットルを流す。
酸素を送られているのは兄だ。マスクをつけた顔は、到底五十六才とも思えないほど老け込んでいる。頬は痩け、眼窩は落ち窪み、目尻の皺も深くなっている。まばらに伸びた髭の黒さだけが、唯一年令を感じさせた。
広々とした個室の一番奥、窓側にベッドは置かれている。増築に継ぐ増築で、真新しくなった市民病院の新病棟だ。部屋にはトイレも付いている。そのトイレを、兄はもはや使えない。立ち上がる体力さえなくなっているのだから。
兄は体中にラインを付けていた。酸素吸入の管、点滴のカテーテルには途中からさらに細いカテーテルが付き、尿管カテーテルの他には、常時測定するバイタルのモニターがベッドサイドを塞いでいる。
ベッドの向こう側には兄嫁と三人の子供たち、こちらに母と私。子供たちは整列したようにきちんと並んでいる。部屋にはただ、ポコポコいう音だけが響いている。誰もがなすすべもなく、死に往く兄を見つめていた。
兄に肺癌が見つかったのは、前年の夏の終わりだった。五月に父が亡くなり、手入れをする主のない畑は荒れ放題。兄は火炎放射器のような除草器を買い込み、汗だくで草を焼いていた。
除草器を置いてタバコに火をつける兄。すでにその時、兄の肺癌は相当大きくなっていたはずだ。咳や痰など日常茶飯事で、タバコを吸い終わったあと、カーッ、ペッ、と痰を吐き出すのはいつものことだった。誰もまだ兄の肺癌には気付いていなかった。兄、本人さえも。
兄が勤めをやめて寺を継いだのは、三十五才の時だ。男の子が二人あり、下の子が生まれたあと、兄嫁は保母をやめていた。
檀家数百というのは、寺の規模として極めて中途半端だ。専業になるには少ないが、兼業するには多いのだ。それでも父は、専業の僧侶、住職だった。生活はつつましく、農家の多い檀家から頂く米や野菜は、余すところなく母が調理した。
兄が跡を継いだ時、父はまだ六十そこそこで、住職を譲ってはいなかった。祖父など、九十三で亡くなるまで住職でいたくらいだ。父が住職を譲ったのは、兄が継いでから十年ほど経った頃だ。兄は四十六才で住職になった。
勤めをやめてからの兄は、それまで会社の休みに行っていた日・祝日の法事が主な仕事となり、平日は月参りと葬儀くらいのもの。一気に仕事量が減った。その分収入が減ったわけで、やがて兄嫁がパートに出始めた。
そのうち兄は、「白蓮華」という寺報を始めた。昭和の終わり頃で、ワープロが出回りだした頃だ。宗門の教えや仏教用語の解説などで紙面を埋め、毎月檀家に配っていた。
元来勉強嫌いの兄が、果たしていつまで続くだろう、と母も私もひやひやしていた。ワープロという新しい玩具を手に入れ、得意になっている間はいいが、いざ飽きたとなると寺報そのものも放り出すのではないか。
実際「白蓮華」は、二十号を待たずして廃刊となった。その代わりのようにやってきたのが、姪だった。上の甥とは一回りも違う、遅れてきた子だ。兄嫁は産院から実家へは戻らず、直接自分たちの家に帰った。兄二人に囲まれ、姪は最初から兄の家族に育てられたのだ。
その姪が、兄の病室で願書を書いていた。他県で中学校の教員をしている下の甥に教えられ、真剣な表情で書いていたのは、兄が危篤に陥るわずか一週間前だった。
高校三年になってもまだ進路があやふやだったのは、突然明らかになった兄の癌告知のせいもあったろう。大学、短大がすぐ隣にある附属高校だが、そちらに行く気はないらしく、北海道がいいとか青森はどうだろうとか甥たちに相談していたようだ。こんな時期にそんな遠くでなくても、と私も母も思っていたが、口には出さない。
姪が生まれた頃、「二十歳になる頃には、還暦だねえ」と、おかしそうに兄に言った母の言葉を、私は何度も思い出す。実際には、二十歳になった姪の姿を、兄は見ることもなく往ってしまったのだが。
兄の最初の入院は、九月半ばだった。まだ転移はしておらず、痩せたとはいえ、しゃべることも立つこともできた。だが、病状は深刻だった。胸水がたまっており、それを抜かないことには、本格的な治療ができない状態だったのだ。
若い頃からタバコを吸い、結婚後はさらに喫煙量が増していた兄。月参りに行っても、読経が終わるとまず一服。そんな兄を見て檀家さんたちは、もっとタバコを減らすよう口々に言ったそうだ。すると兄は、必ずこう答えたという。
「タバコやめるくらいなら、死んだほうがましです」と。
そして実際、兄は肺癌で往ってしまった。
兄が住職をしていた十年間で、もっとも大きな出来事は、本堂の屋根の葺き替えと、庫裏の再建だ。寺の普請といえば、檀家が負担するものというのが田舎の常識とはいえ、すべてを、とはとても言えない。相当な負担は覚悟する以外なかった。
そうして兄と父は、檀家を一軒一軒回って頭を下げ、なんとか普請に必要な額を集めたのだった。
本堂の屋根の葺き替えは、まず本尊を古い庫裏に移すことから始まった。いつもは暗い場所に鎮座する本尊が、明るい場所に引き出された。本堂の屋根の上では、職人たちが身軽に動き回っている。
昭和の初めに建てられた本堂は、台風、特に伊勢湾台風ではかなりの被害を受けたようだ。当時のことは知る由もない私だが、庫裏の階段が外れた、と母から聞いた時には、その被害の甚大さに驚嘆したものだ。
その本堂の屋根が、今甦ろうとしている。
続いて着工となった庫裏の再建。古い庫裏は、これも昭和の初めに建てられたもので、土間は雨漏りがし、二階の押入は鼠の巣窟となっていた。
若い頃、といっても明治の話だが、台湾へ布教に行っていた祖父の土産が、床下のどこかにあるはずだった。そんな懐かしい物も鼠の巣もいっしょに、古い庫裏はあっという間に解体されてしまった。
新しい庫裏は、兄が設計に取り組んだ。その頃すでに、他県の大学に行っていた下の甥が帰ってくることを予測し、二階には三人の子供たち、それぞれの部屋があった。
階下は寺の行事で使えるよう、仏間から居間までが広く取ってある。台所も寺の行事のためにと、土間に大きな流しを付けた。そうやって着々と進む庫裏の普請の間、実は兄の肺癌も、ひっそりと増殖を続けていたのだろう。そんなことを予想もせず、大工さんたちが帰ったあとの仕事場で、兄はのんびりとタバコをふかしていたものだ。
姪が幼稚園に行っていた頃、集団登校する近所の小学生たちに、姪を託すのが兄の朝の仕事だった。すでに黒の法衣を着た兄は、境内の隅に置いた、焼却炉代わりのドラム缶で暖を取っていた。もちろん、タバコを吸いながら。
その時の情景が、今も私の脳裏に浮かぶ。なんでもない、ありふれたとさえ言える場面なのに、なぜか懐かしいもののように思い出すのだ。それはきっと、平凡こそが幸せ、と私がどこかで思っているせいなのだろう。八十、九十まで生き延びた人ならともかく、五十六才で往った兄のことを思うと、そんな平凡さこそ続いて欲しかった、と願わずにはいられない。兄はもういない、と自分に言い聞かせる時、不意に甦るのはいつもこの場面なのだ。
兄の葬儀は、平成十八年二月七日に行われた。三月四日の誕生日まで一月もない。
息子に先立たれた母は、一回りも小さくなったように背を丸め、涙にくれていた。口に出すのは、「なんだか夢を見ているみたい」という言葉ばかり。夢なら覚めるのに、という思いが痛々しいほど私にも伝わる。
兄の死は夢ではなかった。白衣に包まれ、合掌した手に数珠を掛けて横たわる兄は、確かに死んでしまったのだ。
癌の宣告から七ヵ月。よく闘ったというべきか、あっけなかったというべきか、私にはわからない。一時は小康状態を取り戻したものの、最期は見ている方が辛くなるほどの呼吸困難。母はいたたまれず病室を出、最期を看取ることはできなかった。それでよかったと思う。兄も、最期まで母に辛い思いはさせたくなかったろう。
兄がタバコを吸っていなかったら、というのは私たちの無理な願いなのだろう。仕事だけでなく、家庭内のストレスに対し、兄はタバコ以外の解消法を持ってはいなかったようだ。挙げ句の肺癌であったとしても、私たちには何を言うこともできない。
私たちは、兄の墓前にタバコを供えることは決してない。兄の命を奪ったタバコなど、見たくはないというのが本音だ。
兄の病室で願書を書いていた姪は、今年三月、北海道の専門学校を卒業、アニマルナースとして働いている。一月には成人式を迎えていた。父のいない、成人式だった。