2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる
選外優秀作品 |
千野 栄子 様 いつまでも見守っていて下さいね
今から九年前、主人は脱サラして電気工事の自営を始めて、もうすぐ二十年になろうとしていた。初めはなかなか上手くいかなかったが、その頃になると仕事も軌道に乗り、何不自由のない生活をさせてもらっていた。娘は東京に就職し、息子は静岡の大学に行き、夫婦水入らずで、良く温泉に行ったり、外食したり、こういう当たり前の生活がずっと続くと思っていた。
ところがある日、主人が咳が出て止まらなくなり、その日を境に夜になると風邪の時の咳とは違い、全身を震わせいつまでも耳の奥に残る様な咳をしていた。私は何か不吉な予感がして、主人に病院に行く様に勧めたが、仕事が忙しいと言ってなかなか行かなかった。
私の頭の中は、約一ヶ月もの間咳が続いているんだから、きっと何か悪い病気じゃないのかなと思い、いても立ってもいられない気持になり、主人に「仕事も大事だけど、体が一番大事だから病院で診てもらってよね。ただの風邪だったら安心していられるから」と言ったら、自分でも不安になったらしく、近くの医院にやっと行った。
そして結果は、「気管支炎」と言われたと言って、飲み薬をもらって来たので、私は「良かった。悪い病気でなくて、薬さえ飲んでいれば咳は止まるんだから」と胸をなでおろした。ところが、一週間飲んでも、十日飲んでも、全然症状は良くなるどころか、かえって悪くなり、初めは夜だけ咳をしていたのが、回数が増えたので、又私は不安で、何とも言えない気持になり、「薬を飲んでも治らないんだから気管支炎じゃないかも知れない、良く検査してもらった方がいいよ」と主人に言うと、体調の異変に気付いたらしく、翌日医院へ行った。ところが検査結果は、「気管支炎」じゃなく「紹介状を書くから、すぐG病院に行って下さい」と言われたと言って、医院から帰ってきた主人は、あれだけ好きだったタバコを吸わなかった。私は主人の様子を見ていて、ただ事ではない事を察した。
タバコを吸い始めて約三十年間、一日どの位吸うかは分からないが、食事をする前、食事中でもタバコを「ちょっと一服」と言いながら吸っていた。良く主人は「お酒は飲まない日を作る事は出来るが、タバコは絶対に止める事は出来ないな」と言うほど、ヘビースモーカーだった。私は主人に「タバコは害があっても体に良い事は何一つないんだから、タバコの値段もぐ〜んと値上げして、一箱千円位に上がればいいのにね。そうすればタバコは止められるんじゃないの」と冗談を言った事もあった。
主人は、紹介状を持ってG病院で診てもらう事になったが、診察してすぐ検査入院する事になった。私は仕事帰りに病院に寄ると主人は「おかしいよな。咳が出て色々検査しているのに、脳の検査までしてさ。俺、どこが悪いのかな」と心細さそうに言っていたが、私も本当にどこから来る咳なんだろうと思った。検査が全部終了し、結果は主人と二人で聞く事となった。先生は、淡々と「ご主人の病名は、肺ガンでタバコの吸い過ぎで、両方の肺が真白になっています。ガンには四段階あって、その四段階目で脳にも転移しています。手術は出来ません」と言われ、私の頭の中は真白になると同時につくづくタバコの怖さを知った。その日はとりあえず、主人も外泊させてもらって二人で家に帰って来たが、私は現実を受け止める事が出来ず、何もかも手につかず、ただこの先の事を考えると、涙しか出て来なかった。主人は、入院生活が長くなると家の周りの草も刈っていられなくなるからと言って、外で草刈りを始めた。私は何もする気がしないのに、主人はこんな時仕事をする気になるなんてと思って、外で草刈り機を回している主人を見たら、泣きながら草刈りをしている姿が目に入った。その時私は、辛いのは本当は私じゃなくて主人なんだと思い、私が前向きに主人を支えてあげなくてどうするんだという思いが込み上げ、もう泣くのは止めようと決心した。
辛かったけど、県外に住んでいる子供達に父親が今どんな病気で、どんな状態なのかを話す事にした。二人共電話の向こうで泣きながら私の話を聞いてくれて、娘は「お父さん絶対に死なないよね」って何度も声を震わせ、遠く離れている父親を想い泣いていた。息子は「俺、大学を休学してお父さんの看病をするよ。勉強はやり直しがきくけど、親孝行は今しか出来ないから」と言ってくれたけど、私はやはり大学は四年で卒業して欲しかったし、主人も自分の為に大学を休学した事を知ると切なくなるんじゃないかと思って反対した。しかし、息子は「お父さんの事が心配で勉強どころじゃない」と言って大学に休学届けを出して帰って来てくれた。
知り合いの人達も皆心配してくれ、あの薬この薬と色々民間療法を勧めてくれる。私はわらをつかむ思いで、どんなにお金がかかってもいいから、元の主人に戻れるんだったら生活を切り詰めてでも、なんとかしたいという思いで一杯だった。
いよいよ本格的に闘病生活がスタートした。主人の病状は、手術も出来ない状態だったので、抗がん剤治療しかなかった。民間療法が少しはきいたのか、抗がん剤にも負けず、髪の毛は抜けたが、吐き気等は何も無かった。余命六ヶ月と宣告されたわりには元気で、毎日体重を量っていて「ガンになるとどんどん体重が減ると言うけど、俺は全然体重が減らないし、こんなに元気なんだからすぐに退院出来るよな」と主人は言っていた。私も医師から、「もう二、三ヶ月位たつと寝たきり状態になる」と言われたが、「本当にそうなるんだろうか、このまま治るんじゃないかな」と錯覚を起こすほど元気だった。
無事に二回の抗がん剤治療も済み、主人の希望通りに退院させてもらって、家で好きな事をして過ごす事にした。こういう安定した期間は長くはなく、一ヶ月もしないうちに、肺に水が溜まって苦しくなり、再入院する事となった。体はだんだん痩せ病院のベッドでほぼ寝たきり状態となった。娘は有給休暇を全部使って帰って来てくれ、今後出来る限り病院じゃなく、自宅で楽しい時間を作る事にした。親子四人で仕事もしないで、学校にも行かず、主人を囲んで楽しく話をしたり、病気の事なんか忘れるほど大きな声で笑ったりした。毎日、私や子供達とゆったりとした時間を過ごしているので主人は「お盆とお正月が一度に来たみたいだな」と喜んでくれたので、子供達が一番の薬なんだなあと思い、私も嬉しくなった。
病魔は確実に主人の体をぼろぼろにしていった。余命六ヶ月と宣告されてちょうど六ヶ月目の頃、自分一人では何も出来なくなり、私はもう死を覚悟しなくてはいけない時が来たのかなと思い始めていた。そんなある日、主人が私に「すまなかったな。今まで苦労ばかり掛けて、これからは苦労掛けた分、幸せにしようと思っていたのに・・・」と私の手を握り泣いていた。その時私は、私なりに精一杯の嘘をついて「何言っているのよ。少しぐらい体調が悪いからと言って弱気になって。早く治って又温泉行きたいね」って言いながら私も泣いてしまった。
急に容態が悪化し、病院では個室に入り、酸素を付け、話も出来なくなり、目が離せない状態になった。すぐ娘を呼ぶ事にした。不思議な事に、娘が来るまでは目が開かない状態で、何も食べれなかったのに、娘が夜駆け付けて来てくれ、「お父さん、私分かる?」と何度も言うと、首を縦に振り、そのうちに目を開けて少し食事をする様になった。翌日にはみるみるうちに元気になっていった。
後で友人に「ガンには必ず病気と仲直りする時期があって、末期のガンでも一時的に良くなる事があるんだよ」と聞かされた。
そして病状も一日一日不安定な状態が続き、春の桜の季節を待たずに、三月十五日、四十九才という若さで逝った。
私も子供達も、主人が肺ガンである事を知らされた時は気持が落ち込み、この先どうなるんだろうと思い不安だったけど、心配ばかりしていても病気は治るわけじゃないんだから、やるしかないと思い、子供達と協力して看病する事が出来て本当に良かったと思う。息子は「お父さんのそばでずっと看病する事が出来、思い残す事は無いよ。又大学に戻って一生懸命勉強するさ」と言い静岡に帰った。娘も父親が心配で何度も仕事の都合をつけて帰省してくれた。その娘も看病を終え、やるだけの事はやったという思いを胸に帰京して行った。
あれから八年、良く時間が解決してくれると言われるけど、本当にその通りだと思う。私は主人が居た頃は、頼りきって全部おんぶに抱っこだった。主人が亡くなったらどうなるんだろうと思ったが、自分が出来る事だけを精一杯やろうと思って今まで生きて来た。
主人が亡くなって一番そばに居て欲しいと思った事は、中越地震で家が全壊した時だった。幸いにも息子が大学を卒業して、県内に就職していたので、すぐに飛んで来てくれ、色々相談にも乗ってくれて、何とか家を再建する事が出来た。そして今春、息子が結婚した。主人が元気で居たなら、どんなにか家族が増えた事を喜んでくれたに違いない。主人は人生の半ばでやむなく命が絶たれ、まだまだやりたい事やしなくてはならない事がたくさんあっただろうと思うと無念でならない。
主人は子煩悩な人で、私達家族を心から愛していてくれた。せめて私達は、その主人の気持を大切にし、時々楽しかった事を思い出して、今現在を一生懸命生きて行く事だと思っている。