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選外優秀作品

佐藤 功 様 K先生からの年賀状


 1
「お元気ですか。このたび、雑誌・『O』1月号に、文章を寄稿しております……」 
 正月元旦。いただいた年賀状には、定年退職後、好きな研究に没頭、地元の「郷土史家」としてスタートを切られたK先生の元気な姿が、文面に踊っていました。

  2
 高校で社会科を教える私がK先生と初めてお会いしたのは、今を去ること20余年前。
N高等学校に赴任したとき、教科の先輩として、先生は在職されていました。
 この年、2人で日本史を担当したのですが、K先生の恐るべしは、雑学知識に長けておられること。教科書記載の事象だけでなく、その裏側、それも「そんなこと知らんでもエエやろ」と思うような物語が次々とその口から語られました。
「今日、お昼からあいてるか?」
 N校赴任早々、5月の気候のいい午後、K先生に誘われ小遠足をしたことを思い出します。市内の史跡を自転車で巡り、写真に撮り、それを拡大して歴史パネルを創ろうという試みでした。
「この公園の奥、こんなところに、一休さんのおかあさん生誕の碑があるんや」
「ここから、弥生時代の船がほぼ原形で出土したんやで」
 貴重で深みある郷土の逸話が、現地で次々と語られます。
「出土当時は、遺跡の管理もずさんでな。弥生時代の船が出たなんていったら大事件のはずやのに、出土品はシートかぶせただけでまったく放置されたままや。だから、よく夜中にシートをあけて、ちょこっと自主見学をば……」
「センセ、その話アブナイ」
「ん~、時効やがナぁ」
 鼻からタバコの煙をもくもく吐き出しながら、漫才まがいのネタが飛び交います。
 何度か先生のご自宅にもお邪魔させていただきました。書斎は多量の本であふれ、あちこちで手に入れてきた「収蔵品」もきちんと分類されて保管されています。貴重な歴史的遺産もたくさんありますが、古い雑誌類から何年もかけてラジオ番組を録音した歌謡曲全集に至るまで、その内容はよく言えば多岐に渡り、悪く言えば節操なく(?)。
 われわれ若手教師たちは、親しみをこめて「K博物館」と呼んでいました。

  3
 私がK先生と懇意にさせていただいた理由は、同じ社会科の教員であることとともに、共通の趣味が「麻雀」であったことも大きいと思います。
 このころ、週の半分は、K先生と雀荘に寄り3人打ちの特殊なルールを楽しみ、一緒に自転車で帰る毎日でした。
麻雀のとき。力が入ると、K先生は独特の、口を尖らせた気合いっぱいの姿で牌をつままれます。
 捨て牌のあと、その手は必ず右横灰皿へと伸び、タバコをさっきから尖らせたままの口に持っていく。
 大きく息を吸い込みながらまた牌を引き、牌を捨てては煙を吐く。
 器用な一連の動作は流れるようで、もはやタバコを吸っていないときでさえたえず口を尖らせ、気合をこめて牌を引かれます。
 喫煙しない私まで、リーチをかけたときなど、K先生の影響か口を尖らせて牌をツモる(引く)クセがついてしまいました。
 でも、このころの「連日連夜、力をこめて牌をひきタバコの煙を吸いこむ」日々は、やっぱりK先生の体にとって全然よくないものだったようで。

  4
 K先生から賀状をいただいた私は、本屋に雑誌・『O』1月号を買いにいきました。
 しかし、何軒かまわった本屋で、みな同誌は売り切れ状態。
 そこで、久しぶりに声も聞きたくなり、K先生宅に電話を入れることにしました。
(K先生とは、一昨年の夏以来会っていないな……)
「地元の図書館で、夏の終戦記念イベントとして、戦時中の教科書や教具展をやってるんや。ぼくのコレクションを展示してるので、ヒマあったらみにきて」
 突然電話があり、そのとき図書館へ見学に行ったときにお会いして以来。
「ちょうどぼくの学生時代は、戦時体制まっただ中でな、1年のときは甲乙丙丁、2年は1から10までの10段階、3年では優良可に秀とか良上とか加えた5段階。ぼくは毎年評価基準が変わった通知票を持ってるんや」
 そのときも、1つ1つの展示品をていねいに、かつ、いつものユーモア交えた語りで説明してくださいましたっけ。
 地元にしっかり根づいた郷土史家――そんな「第2の人生」をスタートされたK先生宅にお電話し、電話口に出られた奥さまに伝えました。
 K先生から年賀状をいただき、『O』1月号を探しにいったこと。
 同誌が売り切れており、手に入らないこと。
 これらを聞いた奥さまは、その後静かに、K先生が体調を崩して寝込んでおられることを私に告げられました。
「では、お見舞いに伺ってもよろしいですか。久しぶりにK先生にお会いしたいです」
 脳天気な私の申し出に、奥さまのことばが詰まりました。
「お見舞いいただいても、もう、相手がどなたかわかる状況じゃあないんです……」
 事態は悠長なものではなかった――。
 末期の肺ガン。
 K先生の病気がみつかったのは、ちょうど昨年暮れ、先生が私への賀状を書かれた直後のことでした。すぐ入院の措置が取られたが、すでに各部へ転移しており、有効な手だては不可能だったとか。進行は早い。投薬、化学療法も試みられましたが、手の施しようがなく、私がお電話した1月後半は、「最期はご自宅で」ということで帰還されていた時期でもありました。

  5
 今年の2月26日、K先生は帰らぬ人となりました。
 私は葬儀受付の1人を務めさせていただきましたが、教え子、もと同僚のほか、地元を大切にされたK先生らしく、町内会や商店街関係の方の弔問が相次ぎました。
「やっぱり肺ガンか……。タバコが好きな方だったからなあ」
 先生を知る多くの方々のことばに、無念さが漂います。
 K先生が「郷土史家」としてデビューされた、雑誌・『O』の編集長も顔を出されました。
「ついこの間、お世話になったばかりなのに。これから、なのに」

 その後、私はなんとか探し当てて、雑誌・『O』1月号を手に入れました。
 そこには、私たちが「K博物館」と呼んだご自宅書斎本棚を背にしたK先生の写真が載っています。
 写真説明文にある肩書きは、もちろん「郷土史家」。
 5ページに渡る当町の歴史概説ページの末尾で、K先生は次代の者たちにこう呼びかけておられます。
「伝承は伝える人がいなくなれば、消えてしまう。記憶や体験も言葉にしないと、一代で途絶えてしまう。街の伝承や記憶を語り継いでいきましょう」

 考えようによっては、死期を迎える前に雑誌掲載がなんとか間に合ったとも言えます。
 しかし、私にはやはり「無念」の思いが尽きません。
 やっと、今まで集めに集めた史料を解析できるときがきたんじゃないですか。
 これからが、われわれ若輩たちに、「伝承や記憶を語り継いで」いくときじゃないですか。
 早すぎますよ……。
 遺影に向かってそう語りかけると、穏やかなK先生の口元が、“いつも”のように少し尖ったような気がしました。  (了)