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選外優秀作品 |
マサちゃん 様 マサオちゃんへの鎮魂歌
平成七年一月十一日の日記
今夜はマサオちゃんとカズちゃんの店でじっくりと話をすることが出来た。マサオちゃんとわたしとは幼馴染だった。中学校の同じクラスで机を並べたもっと以前に、菓子屋を営んでいたわたしの両親の店にマサオちゃんはお母さんに手を引かれて、何度もやって来ていたので、幼いなりにふたりは顔染みだったのだ。わたしはマサオちゃんを「マサオちゃん」と呼んでいたのに対し、マサオちゃんはわたしのことを「マサちゃん」と呼んでいた。中学校を出て、高校、大学とふたりは別々の学校に行き、仕事も分野が違っていたので長く会うこともなかった。マサオちゃんと三十五年ぶりに再会したのは、同じ中学校の同窓生で、私鉄阪急電車池田駅の近くで小さなスナックをやっているカズちゃんの店である。お互いサラリーマンとして脂の乗りきった年代で、アパレルの会社の取締役についていたマサオちゃんはゴルフもシングルで余裕たっぷりの好紳士だった。カズちゃんの店は気の置けない店で、多くの当時の同窓生が常連客となっていて、楽しい雰囲気の店だった。お互い本名やあだ名で呼び合う中で、五十才を過ぎても、わたしたちは「マサオちゃん」「マサちゃん」と呼び合ってみんなの怪訝な眼差しを浴びた。
今夜じっくりとマサオちゃんと話し合った内容は煙草の害についてであった。
「煙草の害ってチェーホフの話かいな、それとも芥川龍之介か?」
マサオちゃんはにやにやしながら言った。
「違う。今夜の話は真剣やで。この店やゴルフ場で会うごとに思うねんけど、マサオちゃん、あんた煙草の吸い過ぎや。ゴルフ場では毎ホール、ティーグランドで煙草をふかしてるし、今夜でも会うてまだそんなに時間もたたんのに、灰皿は一杯やで」
「ええねん、太く短くいったらええがな」
「あかん、そんなんあかん」
「マサちゃんはいつ煙草やめたん?」
「八年前や。五十才の誕生日にやめた。それまでは一日六十本吸うてた。煙草止めるのん、そんなに難しいない。からだの中のニコチンを断って追い出せばええだけや。ニコチン中毒からの脱出や。それだけのことや」
マサオちゃんはちょっと神妙になって聞きながらうんうんと頷いた。
平成七年八月五日の日記
「マサオちゃん、友達なら友達らしく、しっかり教えてえな。また、ソケットしてしもたがな」
ゴルフ場の芝はむんむんと暑い陽射しを跳ね返して、汗みどろになりながら、わたしはシングルの腕のくせに本気になって指導しようとしないマサオちゃんにくってかかった。
「ええねん、ええねん。今の打ち方で上出来や。文句のつけようがない」
マサオちゃんはそれだけ言うと、自分はぴしっと第二打をグリーンオンさせた。
「マサちゃん、この靴おれにはちょっと小さ過ぎるねん。貰ってくれるか。新品やで」
「えらい上等な靴やな」
「うん、安くはないな。まあ、おれの形見やと思うて貰っておいてえな」
「おいおい、おかしなこと言いないな」
「それからな、マサちゃん。ゴルフは頭でやったらあかんで。考えたら考えるほど、球は当たらんようになってしまうで」
平成七年十二月十八日の日記
年末になってカズちゃんの店は大賑わいであった。常連の同窓生達が大勢集まっていたが、わたしとマサオちゃんはカウンターに隣り合わせで坐った。
「市会議員やってた死んだ親父が、土地を少し残しておいてくれたんで、三軒ほど借家を建てようと思うてるねん。社長と折り合いが悪くなったアパレルの会社は五十三才で辞めたし、あとは株で儲けてゆっくりいくねん。なあ、マサちゃん、あんたはいつまで出向している子会社で働くねん。いつまでも仕事をしていて、老いぼれて暇になってもなんにもでけへんで。元気な内に、仕事打ち切って遊ばな」
同じ歳ながら、なにかにつけてぱっとしないでいるわたしに引き替え、マサオちゃんは実にスマートであった。
平成八年七月二日の日記
JR宝塚駅で、カズの飲み仲間で同窓生である山本君と川上君と会って相野駅に行き、迎えに来てくれていたマサオちゃんの車でゴルフ倶楽部に行く。マサオちゃんは自宅の建て替えのため、この相野という田舎に一軒家をかりて二匹の犬と暮らしているので今日のゴルフはこの地になった。マサオちゃんは元気にホストをつとめてくれたが、始めから終わりまで、コンコンと妙な咳を連発した。
「無理したらあかんで。風邪かいな」
「大丈夫や、ちょっとこのところ咳が出るだけや」
マサオちゃんはそう言って、借りている一軒家の家主で、上等の三田肉のすき焼を食べさせてくれる大学の先輩の店に連れて行ってくれて、自らすすんで箸奉行をつとめてくれた。細かいところにも目の行き届く友達思いの本当にやさしいマサオちゃんであった。
阪急池田に戻って、山本、川上君とカズちゃんの店に立ち寄った。
「どうでした?楽しかった?」
カズちゃんがにこやかに尋ねた。
「ああ、楽しかった。腹一杯肉を食べた」
「うーん、そやけど、ちょっと様子おかしいな、あいつ」
三人は顔を見合わせた。
平成八年八月十七日の日記
午後、山本君が車で来てくれて、川上君を途中で拾って、三田市民病院に入院中のマサオちゃんを見舞う。さきのゴルフで変な咳をしていて時々呼吸がしにくい具合であったので、案じていたが、なんと医師に肺ガンの宣告を受けたのだ。肺の付け根のところに病巣があって、放射線みたいなもので散らすのだそうだが、それを行うと気分が猛烈に悪くなって体が衰弱するので、いまはそれを止めて体力の復活を待っているとか。極めて不安の募る話で、マサオちゃんと奥さんの苦悩は大変なものであった。食欲まったく起きず、このままでは病気が進行するだけではないか。本当に状況は良くない。見舞いの言葉も時には途絶えて重苦しい一時であった。帰り際、廊下に到る扉越しにマサオちゃんを振り返って見たが、マサオちゃんは下を向いたままであった。壮絶な孤独との闘いの姿であった。
マサオちゃんに奇跡の起こることをひたすらに願う。
平成八年九月十二日の日記
「マサちゃん、いつまでも仕事をしていて、老いぼれで暇になってもなんにもでけへんで。元気な内に、仕事を打ち切って遊ばな」
マサオちゃんの声が耳元に聞こえる。
さきに三田市民病院に山本君、川上君とともにマサオちゃんを見舞った時は、すでにガンは末期であったようである。マサオちゃん、五十八才の一期であった。
十二時から箕面の集会場で行われた葬儀には山本君、川上君、やはり中学の同窓の今田君とわたしが参列した。しっかりとした長男が、きちょうめんな父が、死が迫ったベッドの上で、みなさんにお礼の便りの下書きを書いていたと報告した。気丈に堪えていた妻はその言葉に泣いた。あわれであった。
一年半前に煙草の話をしたことをふと思い出した。それは遠い昔のことのように思えた。しかし、それは同時に昨日のことのようにも思えた。あの時、マサオちゃんの胸の中にはガン細胞は存在していたのだろうか。見舞いの時に、すでに末期ガンであるのなら、あの忠告は遅すぎたかもしれない。それでも、それでも、もしやの無念が残る。
一灯を捧げて、わたしはこう言う。
「遊び急ぐのはええけど、死に急いだらあかんがな、マサオちゃん」
平成二十年七月二十日の日記
あれから十二年の年月が流れた。
マサオちゃんへの思いが胸にからんで、以前に貰ったあの上等の靴には、何故かまだ足を差し入れていない。
(お わ り)