2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


選外優秀作品

国岡 淑子 様 挽歌


 いまから二十年前の秋の一日、私は亡夫の遺骨を持って、JR新大阪駅から、ひかり号にのりこんだ。広島駅から芸備線に乗りかえて、備後庄原駅に向かった。亡夫の遺言により故郷で納骨するためであった。
 広島駅を過ぎると、電車は広々とした田園の中をかけぬけてゆく。線路沿いにススキやコスモスの花が、風にそよぎ、黄金一色の、稲穂のつきるところに、くっきりと山が見える。途中山峡を走り、清流を渡って、ひなびた駅をいくつか通り過ぎてやっと庄原駅に到着した。
 美しい風景は、みあきることなく私を楽しませてくれた。夫といっしょだったら、どんなにか楽しいことであろうに。あなたはもういない。これはひとりぼっちの寂しい旅であった。
 朝早く家を出たのに、駅についた時には、正午を過ぎていた。駅前の食堂でおそい昼食をとり、目的地のT寺までタクシーを利用した。寺は丘の中腹に建っているとかで、うす暗い木立の中を、車は徐行しながら、登ってゆく。
「あなたやっと帰ってきましたよ。なつかしいでしょう」
私は遺骨に語りかけて窓を開けた。幼少時から少年期、夫は、この坂あたりを、駆けて遊んだであろうと思うと、一木一草にも、親しみがこみあげてきた。
 三〇分ほど走って寺に着くと、中年のいかにも清潔なよそおいの住職さまは、お手紙を拝見しまして、朝からお待ちしていましたとおっしゃって、お茶を入れて下さった。
 住職さまの連絡をうけて、すぐに石屋のご主人が見えた。墓地には先祖いらいの古びた墓があった。石屋さんがコテで墓石を開いてくれた。私は遺骨をおさめた。石屋さんが帰って、住職さまの読経がはじめられた。人里離れた静寂の山に、線香の煙が立ちのぼってゆく。読経の声のみがおもおもしく響き渡って、私はとめどなく涙を流した。
 私と夫とは、どちらも再婚同士であった。夫・五十三歳、私四十三歳。二人は知人の紹介でお見合をしたのであったが、会った瞬間どこか歌人の前登志夫に似た風貌に私は強く惹かされた。半年の交際ののち、彼から求婚されたが、前夫の浮気にこりていた私は、すぐには決心出来なかった。そんな私が決心したのは彼の一言であった。
 「あなたはまだ若いけれども、年を取ってひとりぽっちと云うのは、寂しいものですよ。お互い支えあって楽しい家庭をつくろうではありませんか?」
 当時夫は、小さい会社に勤めていて、公務員の私の収入の方が多かったが、そんな事はいささかも気にならなかった。
 その後二人のたのしい生活がはじまった。私の帰りのおくれた時には、夕食の支度をして待っていてくれた。旅行ずきの夫につれられて海や山に遊び、自然に親しんだ。友人からは、性格が丸くなったと云われた。自分では気がつかなかったが、多少きついところがあったのであろう。
 そんな生活が、十年あまり続いた時、夫は時々右胸部の軽い痛みを訴えた。私は受診するようすすめたが、なに大丈夫さ、と云って放置していた。ところが咳が出て苦しくなったので、流石に夫も心配になってきたらしく、かかりつけの医院で、胸部のレントゲン写真をとって貰ったところ、肺ガンの疑いがあると云われ、H大の外科に受診したところ、その場で入院をすすめられた。
 入院して精密検査をうけると、右肺下葉部に鶏卵大の腫瘍がみつかり肺ガンと診断された。すぐ手術となり、開胸したところ、既にリンパ節に転移していた為摘出はあきらめた。その後化学療法なども実施されたが、効果は見られず夫はだんだんやせて、衰弱してゆき六ヶ月後についに帰らぬ人となった。
 夫は若い時からタバコをたのしんでいて、一日に二十本くらい吸っていた。当時禁煙のすすめはあったけれども、一日十本くらいならよいだろうと云う医事評論家の言葉もあったので私はあまり気にしなかった。夫のタバコの吸み方は、まるまる一本吸うことはなく、半分くらい吸ったところで捨てていたからまあ十本くらいだから良いわ、と気楽に考えていたが、今思へばうかつなことであった。
 「充分ではありませんが、精いっぱいつとめさせて頂きました」
和尚さまの声で、私の追憶は中断された。長々と続いた読経は終わった。秋の山は、はや暮れかけて薄もやの中を、線香の煙が立ちのぼってゆく。
 ふと脳裡に浮かんだ歌があった。
 「秋山の黄葉をしげみ感ひぬる   妹を求めむ山路知らずも」
万葉歌人柿本人麻呂の歌である。昔も今も変わらぬ死者への思慕の念に浸りながら、心を残して山を降って行ったのであった。