2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる
選外優秀作品 |
児玉 郁代 様
父は、家ではあまり喋らない人だった。というより、喋らないようにしていた。父は、隣りの町から婿に来た。母親と娘二人だけの家に長女の結婚相手として世話があり、一度断ったものの、だいぶ経って別の世話人からまた話が来たので、これも縁かと思い結婚したという。戦後の大変な時代を母子三人で暮らしてきた家だけあって、かなり倹しく、気の強い女達のいる婚家であった。その点、父はというと、食べる物には困る事のない程度の次男坊だ。両親も健在だ。結婚前は、夜通しガールフレンド達と遊び歩いても、翌日しっかり朝から仕事に出るという暮らしぶり。自由な人だったのに生活はいっぺんに変わった。父は、家族と会話をしようと努力した。でも話題が合わず、いろいろ話をしてもすぐけなされたり、もぞもぞ言って話がわからないなどと露骨に言われる。女達相手に短気を起こすわけにいかず、話をしないようになったと父は言った。そこで『無口で良く働く婿さん』と近所の定評となる。そして『我慢強い人』だと。家族にとっては『変わり者』
そんな父のちょっとした息抜きが、たばことコーヒーだったようだ。父の好きなたばこを私は良く覚えていないが、確かマイルドセブンだったろうか。たまに外国ものも吸っていたみたいだった。しかし、家の中では絶対に吸わない。車の中でも吸わない。専ら仕事に行く途中の駅のホームと職場。夜は、自宅の庭で吸っていたのかな。とにかく家族のいる所では絶対に吸わないのだ。きっと、ぜんそく持ちだった私に気を遣ってくれたのだろう。だから、私は“たばこ臭い父”という覚えがない。まるで、たばこを吸っている事を知られたくないかのようだった。特に家族には。
一度こんな事があった。私が小学生の頃、何が原因だったか知らないが、父が借金をした。サラ金に。自宅に何度か請求の電話があって、私も受けた事がある。その借金を返す為、父は母と電車で出かけた。電車を待つホームでいつものくせが出た。父が一服し始めたのだった。母はじっとにらみボソッと一言。「こんな時に。たばこなんか吸ってんじゃないよ。」
この日から、父は禁煙した。でも、少し、本当に少しずつ吸い始めたようだった。
昔から咳払いの気になる人だった。朝起きた時からゴホンと一つやる。行ってきますと家を一歩出た所でゴホンとやる。私が家にいて、父の姿は見てなくとも、ゴホンとやればどこで何をしているのかすぐ解った。うがいしてる所なんて一度も見た事がない。だから常にのどに何かがひっかかっているみたいに見えた。そんな父が、私の結婚から数年後、肺炎で入院した。母は私に
「大げさにしたくないから、あなたには早く知らせなかったのよ。お盆に来ればわかると思ったからさ。」
と言った。私が帰省し、病院に行った時にはかなり元気で、もうすぐ退院という時だった。
「悪い方にならないように気を付けてよ。ちゃんと検査も受けてよね、心配だから。」
そう言い残して私は帰って行った。その時は本当に心配だった。退院時のドクターからの話だと少々肺に陰があって、残っているのが気になるんだと言われたようだ。でも、本人も家族も悪いものだと気付いていなかった。父が退院してから、実家に用がある度、検査しているかと母に聞く。
「最初は行ってたみたいよ。でも、今は元気だから行かないみたいよ。本人の事だし、私もいちいち言わないの。変わってる人だから。」
との返事。私も元気だという言葉ですっかり安心し、陰があった事を記憶から消していいんだと勝手に思い込んでしまった。
父は、三人兄弟の末っ子の私を良く可愛がってくれた。年が離れて生まれたのでほとんど一人っ子状態だった。小さい頃、遊園地に連れて行ってもらった帰りに、リカちゃんのお部屋つき洋食セットを買ってもらった。すごく嬉しかった。ダイニングテーブルにイス。小さな白いお皿の数々に小さな銀色のスプーンにナイフにフォーク。お姫様になって“お食事”が楽しめた。それを見た母は、無駄なものとして好まなかった。だから大事にしまってあった。なのに、いつのまにか私に断りもなく従姉妹に渡っていた。童謡の本を私の枕元にそっと父が買って置いておいてくれる時があった。必ず二冊ずつ、シリーズものだったらしい。そのおかげで、私はたくさん歌を覚えた。クリちゃんレコードがあったので本と合わせ見て歌っていた。父はサンタだった。
私が大学生の頃、家庭教師のアルバイトをしていた。夜遅くなるので、父は毎晩、駅まで車で迎えに来てくれた。駅から家までの二十分の間、ポツリポツリと会話をした。途中いつも自動販売機でコーヒーを買う。これが父の楽しみだという。父娘が過ごすわずかな時間。私の知らない父を少しずつ知るようになる。決して無口な人ではないし、変わり者でもない。私は二十才近くなってやっと解った。日常の中でも、父のいろいろな事に目がいくようになった。意外におしゃれだという事。歴史物が好きで、良く本を読む事。大工仕事や修理ができる事。社交的な事など。服は決まった紳士服専門店があり、そこ以外ではなかなかウンと言わない父。“兼業農家の父ちゃん”とは思えない姿で仕事に行くのだ。小柄で細身の父は、派手な柄のシャツにシルクのエンジのスカーフを首に巻き、細めのスラックスをかっこ良く着こなしていた。髪も、決まった床屋で、いつも軽くパーマをかけてもらっていた。そんな人が、家にいる時は一日中、Tシャツと作業ズボンで過ごしている。田畑の仕事はもちろんするが、必要とあらば農具小屋まで自分で作る。大きな耕作機械が縦に三台くらい入るような小屋だ。
「家も建てられそうだね、お父さん。」
と感心して私が言うと
「うん、できると思うよ。やり方は同じだし。」
なんて言う程、自慢の小屋だった。自転車だって、パンクくらいすぐ直すから、男の人はみんな大工仕事や修理はできて当たり前だと思っていた。私は結婚してから違うと初めて気づいた。
私の結婚に関して、父にはすまないと思っている。就職して一年後のこと。結婚式もせず、五年間交際した人と籍を入れる事にした。埼玉と静岡との遠距離恋愛が面倒になった事が理由だという事にしていた。しかし、いつまでも不仲な家族に疲れたからだ。お互いを受け入れようとしない大人達。逃げたかった。一人一人は嫌いじゃないけど、もう耐えたくなかった。結婚したら、父とゆっくり話す機会は減ったけれど、兄弟の誰よりも父と仲良く会話できていた。実家に帰れば、前と同じ様にいろいろ話した。父の今の愛読書についてや、社交ダンスに行き始めた事、市民講座を受けている事。母と旅行できるようになった事。近所の親父仲間でバンドを作ったと聞いた時にはびっくりした。
「お父さんのパートは何なの?」
「オレか? オレ、マラカス。」
「マラカスなのぉ?」
「そう、タンバリンもやる。」
嬉しそうに答える父。そう言えば、ジャンルは違うけど、民謡を習ってた時期があったし、尺八も家にあったなあ。音楽好きだったんだ。少しずつ“人生楽しんでるよ”って言えるようになってるんだと安心した。
そんな頃、私が実家に電話すると、父はこのところ天気が悪いと寝る事が多くなったという。持病の腰痛のせいだとばかり思っていた。
「この頃、車の調子が悪くてさ、クラッチ入らなくなっちゃったんだよね。だから、車やめて自転車乗ってんだよね。でも、この間、接骨院行くのにひっくり返っちゃってさあ、いった((痛))かったぁ。」
と父は無邪気に言う。
「やだあ、ちょっと気を付けてよね。接骨院行くのに怪我してちゃダメだよ。」
「大丈夫、大丈夫。」
と明るく答えた父。それがもうガンが進行している前兆だったのだ。車が調子悪いのじゃない。父の調子が最悪に向かっていたのだ。
それからが早かった。その年の暮れ近く、父が倒れた。肺ガンだ。ガンの中でも一番苦しむと聞いた。もう脳に転移している。してあげられる事はないのだと医師から告げられた。父は、肺炎の後、定期健診を受けていなかったのだ。そして、たばこもやめられなかったのだ。今年は最後の年越しだろう。年末に孫達も入れてみんなで写真を撮った。今見ると、もう父はこの世に生きる力を見い出せずにいるようだった。
それから三ヶ月。父は逝った。私がニューヨークに行かなければならない当日の昼頃に。それまで、何度も意識がなくなったと知らせを受けていた。私は、引越しやその片付け、アパートのそうじ、子どもの転校手続き、夫の転勤、ニューヨーク行きの準備と、とても行けなかった。しかも四人の子どもも小さい。
とうとう父に呼ばれた形となった。でも葬式には出られない。私は子ども二人だけ連れ、ニューヨークに立った。薄情な娘である。
空を見ても、何をしても涙が出る。近くに嫁いでいたら、いったい何をしてあげられただろう。検査を強く勧めて健康に注意を払ってあげただろうか。毎日、話し相手になって勇気づけてあげただろうか。もっと過ごしやすい方法を考えてあげただろうか。たばこやめてねって言えただろうか。ささやかな楽しみのたばこだったのに。
でも、自分の子ども達には伝えなければならない事はきっとある。