2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


選外優秀作品

石田 正洋 様 「希有な人、島田さんとたばこ」


 島田さんの葬儀は、はや、二十年も前の事になる。享年四十二歳。教員として素晴らしい活躍の最中。六歳と四歳の二児には掛け替えのない父であり、一家の大黒柱であった。
 通夜の夕べ、由緒ある旧家の門構えが、雷雨に打たれていた。屋敷の内外(うちそと)に大勢の人が溢れ、奥の座敷からは、女の啜り泣き、男たちの嗚咽(おえつ)、嘆きの声が外にまで漏れていた。雨は更に激しく打ち付け、稲光の中に雨足が浮かんだ。繰り返し轟く雷鳴。
「嫌だ! まだ逝くわけにはいかんのだ!」
 誰もが彼の叫び声と聞いたのではなかろうか。頭上に叩きつけるような雷鳴にも、悲鳴を上げる者は誰もいなかった。
 私は、玄関前の人混みで、傘の中に立ち、六年間、一緒に勤めた彼の類希(たぐいまれ)な人柄を思い出していた。私が島田さんに出会った職場は、富士山の麓、茶畑に囲まれ、各学年四学級、教職員三十人余りの中学校。職員室の狭さが机上に皺寄(しわよ)せていた。島田さんの机上にも本箱が置かれ、本箱の上に顕微鏡の箱や資料が積まれていた。私の席からは、大柄な彼の姿は隠れて見えなかった。ただし、彼が席に居れば、必ず、たばこの煙が立ち昇っていた。当時、喫煙は全くの野放しで、大抵の男は、所構わず煙を噴かしていた。島田さんの好みはあの青い缶ピース。ジャン・ギャヴァンのように、たばこが似合っていた。がっしりした体格、がっしりした顔にやや長髪の七三。
 額に斜めに掛かる前髪と四角い大きな眼鏡を図案化して自ら署名代わりに使っていた。
 出会ったころ、私も喫煙していたが、我が子が小児喘息の診断を受け、禁煙した。身勝手なもので、自分が禁煙すると、風上の灰皿の臭さが喉に引っ掛かって堪らなくなった。
 私は、彼のたばこが気に掛かってきた。
「あんなに始終吸い続けていいのかな」
 所属する学年部が違っていたので、個人的な話を交わす機会は少なかった。島田さん夫妻が、初産の子を間もなく亡くし、その後長く子どもに恵まれていない事を何かの拍子に知った。出会ってから数年経っていた。
 彼の専門教科は理科。中学、高校とブラスバンド部で管楽器に長(た)け、古今のミュージシャンにも詳しかった。歳は若いのに、家で自ら育てた盆栽を学校の玄関や廊下にこまめに飾ってくれていた。たわわな藤の花房や紅い姫りんご、口を開いた紫色のアケビ等々。
「藤はさあ、植え替えて根を傷めてやるとね、子孫を早く残さなきゃと思うずらかね、よく花を咲かせるだよ」
と、教えられた。
 島田さんの声はよく通るバリトンで、授業の声が廊下に響いていた。放課後や土曜、日曜日は、部活動で体育館に響いていた。女子バレーボール部の顧問で、毎年、県下に知られる常勝チームを育てていた。私は卓球部で同じ体育館で活動。島田さんの声が響いているだけで、体育館中のどの部の生徒もピリっと引き締まるのであった。声も活動力も元気溌剌(はつらつ)のお手本が服を着ている様な人であった。
 授業でも部活動でも、彼は、怠けた態度やずぼらなやり方は見逃さなかった。全力投球を求めた。私など、生徒には要求しながら己はできていない事が間々あるのだが、彼が生徒に求める事は、教育愛と自らの実践に裏打ちされていた。頭上に響くバリトンの叱声も、生徒は納得していたようだ。職員室の彼の机には生徒がよく寄り集まっていた。
 部活動での彼の厳しさは、私も目にしてきた。相手の鋭いスパイクを仲間が懸命にレシーブしているのに、後をつなぐプレーに少しでも気のゆるみが見られると、あの大きな体とバリトンで詰め寄っていた。
「ボールは、上がっているじゃないか。え!上がっているじゃないか!」
 部員の中から、昭和六十二年の全日本ナショナルチームに入り、活躍した富田律子選手が出た。でも、島田さんは、チームの仲間が互いに技能を高め合った結果なのだと言い、自分の手柄には欠片(かけら)もしなかった。校区の保護者に彼の人気が高かったのも頷ける。
 彼と勤務した昭和五十年代後半、「荒れる中学生」が、全国的にマスコミを騒がせていた。市内にも波は寄せたが、私たちの中学校は、波に浚(さら)われる事はなかった。島田さんの、生徒や職員、保護者への影響が大きかったと思っている。彼は、自分の学級の生徒に限らず、家庭の事情等で非行に滑りかける生徒、悩んでいる生徒には、時には家に招いて食事を共にするなど、手間暇掛けて面倒をみていた。
 ある年「わお!」と、学校中が歓声を上げた。島田夫人、眞喜さんが懐妊されたのであった。奥さんの言葉によれば「夫を父親にしてあげたい一心で」突き止めた不妊の原因は、初産の苦しみに伴う「卵管癒着閉鎖症」であったとのこと。待ちに待った我が子の誕生。島田さんの喜び様は、まさに手放しの様(さま)であった。娘、華(はな)ちゃんへの慈(いつく)しみようは、無かった。職場の仲間と飲む席では、華ちゃんの話題に満面の笑顔である。眼鏡の奥の目、白い歯のはにかみ顔が今も目に浮かぶ。一年おいて長男、岳(たけし)ちゃんが誕生した。花を愛(め)で、山を愛した島田さん夫妻ならではの命名。
 彼は毎日のように手書きの学級通信を出していたが、華ちゃんの住所登録の喜びを学級通信に「命名—華」と題して掲載している。「毎日抱き上げてながめるたびに大きくなっていくように見える娘」と綴り、「明るく素直に育って欲しい」と願う我が子への期待を「もう、欲張った親のエゴが産まれて、云々」と自分を冷静に見つめている。歓喜の只中で。
 岳ちゃん誕生の翌年、島田さんは転任した。その次の年、私も別の中学校に転任。島田さんの葬送は、別れてわずか四年後。
 彼の親友を中心に教員仲間が、二年の歳月をかけて『花みずき—島田壮先生を偲んで—』と題する本を刊行している。島田さん自身が、闘病の実情や心境を、最期まで詳細に記した日記が中心で、奥さんの手記や友人、多くの同僚や生徒の寄稿で編まれている。
 その本によると、島田さんは、春休みに同僚と海外旅行に出た先で、激しい腹痛に襲われ、からがら帰宅したそうだ。診断は「胃炎でしょう」から「肝数値が恐ろしく悪い」へと修正され、即入院。風邪ひとつ引いた事も無かった夫婦には晴天の霹靂(へきれき)であった。薬効無く、発症から約二ヶ月後、黄疸も出て、奥さんに支えられないと歩けない状態に。紹介を得て東京女子医大病院へ。日数をかけた精密検査の結果「悪性の膵臓癌」と判明。
 ドクターが、付き添った身内の医者に「奥様にこれ以上話しても大丈夫でしょうか」と心配したとか。奥さんの狼狽が目に浮かぶ。「まだ子どもが小さいのです。是非助けてください!」
 夢中で縋(すが)る奥さんには、夫に嘘を言わなければならない辛さも覆い被さった。
 転移の可能性を少なくする意図もあって、膵臓の癌を取り除くために、胃や十二指腸、胆嚢の一部も取り除く大手術となった。手術は無事、成功。しかし、奥さんはドクターの次の言葉を聞かなければならなかった。
「これだけの大手術を受けて、一年、生きるのはなかなか難しい」
 ここから、職場復帰を果たすまでの懸命な闘病生活が始まった。学期途中であったので教職も続けた奥さんには十年間にも思えた濃密な三ヶ月を経て退院。自宅療養一年半。その間、島田さん自身の綿密な意図に沿って、家庭菜園、幼稚園への送迎、幼子を連れての大好きな山行等をこなして体力を回復し、念願の職場復帰を果たした。奥さんの手記には「木、花、食べ物、全てに対して命の尊さを体で感じながら、一日一日を噛み締めるように生きていた」とある。
「昨年来のぼくの発病、手術、入院、退院の間に眞喜が育児、仕事、看護、家事と一人四役も五役もして、第二の山を越えてくれたこの一年間の彼女の心労は話に尽くしがたい」
 渾身の愛に支えられた職場復帰であった。
 一方、そのころの彼の日記。
「何かしていないといられない ・・・ ・・・ 思うようにいかない・・・ ・・・ イライラする・・・ ・・・ 結局、眞喜が被害者になってしまう。申し訳ない。しかし『時間がない』という意識はぼくの頭の中から消えたことがない」
 復職の九カ月後、教え子の結婚式に出席した翌日、突然の高熱に襲われ、再入院。肝臓に再発しているとの診断。ドクターの言葉は冷たく「もう、お手上げ」「あと三ヶ月から半年。あとは島田さんの生命力だけです」
 再入院四ヶ月後の島田さんの日記(詩)。
「元気になろう/華がどんな子に成長していくか/みつづけていたいから/岳とビールをのんで男のはなしをしてみたい/そして 約束の眞喜との旅行をしなければ/二人で山へもいこうよ/平凡でいい/元気になりたい/そして ぼくを支えてくれているみんなに/ぼくのつくった野菜をたべてもらおう/眞喜もいっしょに手伝ってください/ぼくらの家族に健康を下さい」
 彼が将来を夢見た愛娘華さんは、現在、女医となり、息子岳さんも医学の道にある。
「学級通信に書いたっけ『暗かったら自分で灯りをつけろ。光が無ければ太陽を持ってこい』なんて。さあ、自分の周りに、お母さんに、華に、岳にぼくは何ができるか。それはもちろん健康になることに決まっているけれど、これはそう簡単にいきそうもないことがはっきりしてきた。病人にできることは何か」
 よくも、最期の最期まで。この強靱な精神力。愛。こんな素晴らしい人がなぜ若くして亡くなったのか。彼自身と愛する家族のために、あんなに大事にした教職のために、もっともっと生きて欲しいのに。
 思い出す。あのバリトン。あの元気溌剌。あの温かな笑顔。あの島田壮さん。職員室の机の向こうに立ち昇っていた、たばこの煙。音も無く密かに。魔性のもののように。