2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


選外優秀作品

郁美 様


 子供を持つ親の大部分がそうであるように、父はとても子供思いの人であった。
兄の少年野球の練習に付き添っているうちに、いつの間にかそのチームの監督になっていた。
兄の早朝のジョギングには、必ず付き合っていた。
遠くまでバスで通う、私のガールスカウトの活動に付いてくるのも父であった。「お母さんは居ないの?」と聞かれるほど、子供の行事に1人で参加する人だった。卒業式や三者面談、ありとあらゆる機会に必ず顔を出していた。 
 そんな父のよくお酒を飲みながら好きなタバコを吸っていた姿を思い出す。
あの頃は、そんな父の楽しみを何も感じず目にしていたものだったが、こういう結果になるなら、もっと真剣に禁煙することを勧めれば良かったのだと後悔せずにはいられない。
 私は高校卒業後、実家を離れ他の地方で生活していた。
そしてよくある話の通り、その地で出会った人と結婚し、実家のある地とは離れて暮らしていた。
数年前のお正月、私は帰省し、両親と時間を過ごしていた。
数日間の休暇は瞬く間に終わり、家へ戻る日が来た。父に駅まで送ってもらい、「それじゃ、またね。」と、普段通りに別れた。実家から家に戻る物悲しさはいつもの事。新幹線の外の景色を眺め住んでいる町に着く頃には、その感情も次第に薄れるのは常。そして日常が戻っていた。
 その3日後、広い範囲で雪が降り、父からの電話で「雪道の運転に注意しろ。」と話をした。
そしてこの会話が父との最後の会話となってしまった。
 その日は休日で、夫と友人の家を訪ねていた。たわいなく時間を過ごし、夜になっていた。
そして、携帯が鳴った。義姉からの電話だった。周りの会話や雑音で何を言っているか良く聞き取れずにいたが、
涙声が尋常ではない雰囲気を察知させた。
「お父さんが倒れて、救急車で運ばれた。」
まさか、数日前話したばかりなのに。お正月はいつものように元気だったのに!!
愕然とし、混乱して泣きわめいていた。友人に駅まで送ってもらったが、すでに20時を回っており、実家まで向かう新幹線はもう無いと駅員さんに告げられた。取り乱した私を乗せ、夫が1人で運転するのは辛いだろうと、数時間かかる実家の地まで友人達が乗せて連れて行ってくれた。高速で向かっても数時間かかるその距離を、その時ほど辛く、長く感じたことはなかっただろう。
地元に着いた時は深夜だった。慣れない道の運転、友人は本当に大変だったに違いない。やっとの思いで病院へ着いた。
暗い廊下で、兄が待っていた。促され父の元へ向かうと数日前に会った父の姿とは大きくかけ離れていた。
人工呼吸器が装着され、父の身体を管理する規則的な機械音が響くだけで、父からの言葉を聞くことは出来なかった。
その姿に涙がどっと流れ、手を握り「お父さん!お父さん!」と繰り返し叫んでいた。私の呼ぶ声に目を開くことは無かったが、80/40辺りを指していた血圧がその瞬間120まで上がった。
言葉も発せない、目の開けられない父が私に示した返事だったのだと思っている。
それから父の側で過ごした。朝が来て、また暗くなろうとした頃、母と兄夫婦と姪と私が見守る中、父は召されていった。58歳という若さだった。
何一つ親孝行をしてこなかった。私は孫の顔も見せられなかった。何も出来なかった事がただただ悔やまれた。
その年は雪の当たり年で、父の告別式にも大雪が降っていた。父との最後の会話が雪であったことが偶然の巡り合わせとは思えない、印象深い1日となった。父がどれだけ家族を思い、仕事に使命感を持ち過ごしていたのか思い知らされる悲しい1日だった。
 父は血圧も日々正常。思い当たる原因といえばお酒と煙草くらいだろうか。
誰が悪い訳ではなく、父親が自分でそうしてきただけである。残された家族のやりきれなさもどこにもぶつけようもない。
だけど、本当に悲しかった。喪失感に苦しんだ。
不本意であっただろう。まだまだ逝ってしまうには早すぎた。もう少し時間が欲しかった。
医療の場に身を置きながら、私は何をしてきたのだろうと悔やまれてならない。煙草を本当に甘くみていた。
 今、私には4歳の息子がいる。
息子から「僕のおじいちゃんはなんで死んだの?」父の写真を見ながら、無邪気に聞いてきた。
「クモ膜下出血っていってね。頭の病気だったんだよ。タバコを吸ってたから、病気になったの。」
どんなに愛情溢れた祖父だったか。あなたが産まれることを望んでいた祖父であったのか、そして煙草を吸うことがどんなに危険で、家族を悲しませることになるのか。ずっと伝えていこうと思っている。息子にとって父のような親であるよう努力しながら。