2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


選外優秀作品

橋爪 紗英子 様 故人を悼む


「好きなだけタバコを吸って死ぬのなら、それは本望というものさー」
ふーっと煙をはきながら、目を細めて言うのが口癖だった‘あなた’。
私と二人の息子が、タバコは健康によくないからと、いくら言ってもやめようとしなかった‘あなた’。
毎晩のお湯割り焼酎も、休肝日などどこふく風。
でもあなたの体は、鋼鉄でも不死身でも、ましてや神様でもなかったのですよ。
一昨年の暮れ、左の肩甲骨のあたりが痛いといって、消炎剤を塗ったり貼ったりしていましたが、一ヶ月以上たってもよくならないので、整形外科にいってレントゲンを撮った結果は、左の肺に水がたまっているようだからと、地元の市立病院に紹介状を書いてくださいました。
その後は、MRIやPETという初めての検査をしぶしぶ受けて、信州大学付属病院に入院し、管で水を抜いて検査したところ、診断は‘肺腺癌’。
くるべき物がきたという思いと、これからどうなるのかという不安で、私も‘あなた’もうわべは平気を装っていても、内心はただおろおろ戸惑うばかりでしたね。
母方の叔父さんは肺癌の治療をしながら、タバコを吸っていても10年近く元気でいたから、自分も多分治療をしながら、あと10年ぐらいは大丈夫だと思う。
不思議にあなたのその言葉は、私を勇気づけてくれました。きっと治るんだと思えるようになったのです。
大学病院で、驚くほど多量の水をぬいてから、胸膜に炎症をおこして肺と密着させて癌をとじこめる治療をし、その後地元の市立病院に転院し、抗がん剤の治療をはじめました。
覚悟していたとおり、頭髪はみるみる抜け、強い吐き気に悩まされ、それでもなんとか食べようと必死のあなたは立派でした。
コンビ二のおむすび、冷やし中華、お雑煮、おすし、食べられそうだというものをせっせと持ってはお昼を一緒に食べましたね。
家では嫁や孫がいつも一緒でしたが、病院ではふたりベッドに並んで座って、なんだか新婚時代のようなあたたかな気分で、あなたしあわせでしたか?
7月に、癌が消えたので退院してもよいと言われたときは、本当にうれしそうでしたね。
自宅に帰ってもしばらくは寝たり起きたりでしたが、秋風とともに体力も回復してきて、11月の母親の法事もしっかりとでき、
12月には、二人で学生時代のOB会に、東京まで日帰りでいくこともできましたね。
毎年楽しみにしていたOB会で、友人たちとビールをのみながら歓談するあなたに、もう癌の影はすっかり消えていました。
でもあれが友人達との最後の歓談になってしまうなんて、あなたの訃報をしったときだれもが驚いたようです。
今年になって正月二日に次男の誘いで、孫娘とわたしとあなたの4人で乗り鞍のスキー場に行きましたね。
そり遊びに興じる孫を雪の上に立って、にこにこ見ていた‘あなた’。
帰りに温泉に入って、「うまいなー」とビールを飲んでいた‘あなた’。
4ヶ月後にはいなくなってしまうなんて、これっぽっちも思っていませんでした。
1月半ばから血痰がではじめ、声がかすれてきて、口にだすのがこわくてお互いに平静を装ってはいても、まぎれもなく癌の再発を意識せざるをえませんでした。
再びCT、MRI、PETの検査が始まり、3月3日に市立病院に入院。5日に抗がん剤の治療。
1週間後ぐらいから抜け毛、食欲不振、吐き気がつよくなり、体力がみるみる落ちていくのがつらくて、「もっと食べないと次の治療ができないんだから」と、つい強い口調になる私の顔を、泣きべそをかきそうな目で見上げる‘あなた’。
やっと胃におさまったと思っても、胃液までしぼりだすほどの強い吐き気におそわれて、苦しむ‘あなた’。
私よりも何倍もつらく苦しかったでしょうね。
そのうえ睡眠障害がひどく、薬で2,3時間は眠ってもその後は5~10分おきにベッドに横になったり、座ったり、ふらふら歩いたり。
幻覚症状も時々ではじめ、「母さんここはテレビ局でな、今朝おれのところにインタビューにあそこの女の人がきてな、おれはいやだと言ってやった。」とか、「ここは内緒話をしても、みんな聞いているのよ。こんなところにはこわくていられない」と、信じられないようなことを言い出すしまつ。
認知症の姑をみてきた経験から、このまま姑のようになってしまったら、と驚きあわてました。
見かねた主治医の先生が、家に帰ったら気分が変わって食欲もでるかもしれないからと、退院許可をだしてくださり、18日に家に帰ってはみたものの、食欲不振と吐き気はいっこうに治まらず、つねにボールとタオルを持っての移動。
あれこれ食べられそうなものを作ってあげても、二口も食べると箸をおくしまつ。
それでも26日の検診日までなんとかすごせて、当日病院へ行って待合室に座っているうち気分が悪くなって、そのまま車椅子ではこばれて点滴をうけることに。
即入院になっても、すっかりなれた私はあわてることもなく、家から一式はいったバッグを持ってきて、準備OK.。
昨年は入院の準備におろおろしていた自分が、うそのような悲しい現実でした。
4月はじめに予定していた治療はそんなわけで延期。
その日から日に3本の点滴が始まり、動きの制限されたあなたはとてもいじれて、「点滴なんか引き抜いてやる」とだだをこねて、私に怒られましたね。
あまりしつこく嫌がるのでなんとか2本に減らしてもらいましたが、それでも夕方までかかるといらいらしていましたね。
先生も体力がつかないと次のステップに進めない、と心配してはいらっしゃいましたが、痛み止めの副作用が強いのかもしれない、ということで、飲み薬を貼り薬にかえてみたところ、これが不思議に効いて、痛みも吐き気もおさまり、いくらか食欲がでてきたのに驚きました。
睡眠障害はあいかわらずでしたが、とにかくいくらか食欲がでてきたということで、4月23日に抗がん剤治療。
そして25日に一時帰宅の許可がでました。
こんな状態で、と不安がよぎりましたが、とにかくあなたは家に帰りたいの一点張り。
今思えば、先生は最後にいくらか体力のあるうちに、本人の望みをかなえてあげたいと思われたようです。
それでも私はこれが最後などと夢にも思いませんでした。
それほど弱ってしまったあなたでも、このまま終わってしまうなどと、どうしても思えませんでした。
25日の夜は3時間ほど眠ったあとは、病院とおなじように、5~10分おきに寝たり起きたり、ふらふら歩いたり。
すっかり睡眠不足になった私ですが、ここは我慢のしどころと自分に言い聞かせ、ドライブしたいというあなたを乗せて大型農道をゆっくり走りました。
途中で地元の観光地である‘菅の台’に行きたいと言い出したあなたを乗せて、観光客でごったがえす道をゆっくりドライブしましたね。
当地で有名な枝垂桜が見ごろで、くるまの窓からくいいるように見ていた‘あなた’。
いい思い出になりましたか?
今あの時を思い出すと、涙がでてきます。
だれもいなかったら、あなたと二人であの桜の下を歩きたかった。
大きなあなたを支えきれなくて、二人でたおれてしまうかもしれない、それでもいいから歩いてみたかった。
その夜も私を眠らせてくれなくて、2泊3日の最後の日なのについいらだって、「私、もう死にそう。ぜんぜん寝かせてくれないから。」とわめいてしまった私。
「もういいよ、早く病院にもどるから。」と静かに言った‘あなた’。
午後の予定が朝の10時には病院に行って、ベッドに黙って横になった‘あなた’。
あんなに帰りたがっていたのに、まるで追い出したみたいに、連れて行った私。ごめんね。
30日には白血球が1000をきったからと個室に入り面会謝絶、つづいて黄疸もひどくなり、足もむくみだし、かなりの重態であることはさすがに私にもわかりました。
もうひとつ、私がきっと一生後悔し、あなたにあやまらなくてはならないこと。
5月5日のこどもの日、孫にせがまれて息子たち家族全員で、名古屋の水族館にいったことです。
はじめあなたの具合がよくないからと、渋っていた私ですが、孫に泣きつかれて、一緒にいくことにしました。
朝、病室に入った私の目に入ったのは、車椅子に座らされて、意識が朦朧としているあなたでした。
でも私のよびかけに目をあけてうなずき、ベッドに寝たいと言いましたね。
そうしてあげたいと思っても、5分もたたないうちにあなたは起き上がって、立って歩き出しては力尽きて座り込んでしまうんです。
そんなあなたを抱き上げて車椅子に座らせることがどんなに大変か、私には看護士さんの苦労がわかるので、ベッドにと言うあなたの望みをかなえてあげることを、ためらったのです。
「お願いだからいい子にしていてね」と子供にさとすように言って病室を出た私は、今日は用事があって夜これないので、明日朝は早くきますから。と看護士さんにお願いして、帰りました。
どんなに寂しかったでしょうね。だってまだ歩いて電話をかけられる時は、いつも「母さんはやくきてよ。寂しくてたまらない。」といっていた‘あなた’ですもの。
その夜病院から電話で、「明日はパンツ式でなく、テープ式のおむつをお願いします。」と言われた時、そんなに悪くなったの、と驚きました。
翌日早く病院へいった私の目に入ったのは、ベッドの上に上半身を少しおこして、酸素マスクをしている‘あなた’でした。
無意識にもがいてマスクをはずしてしまうからと、両手に布のグローブをはめられ、それでも時々起き上がろうともがいている様子は、昨日より重態であることは明白でした。
その日一日つきそって、午後には、明日朝までが山なので身内には連絡をと言われ、無我夢中で義妹や従兄弟たちに電話をし、それぞれが驚きの表情でかけつけてくれました。
「まさかこんなに早く」というのがかけつけた人たちの言葉でした。
それはまさに私自身の言葉でもあり、心の整理もつかないままその夜義妹とつきそい、次第に荒くなるあなたの呼吸にうろたえながら、‘どうして?どうして?’と自身に問いかけるばかりでした。
5月7日午前8時22分 あなたの命の灯が消えた時間です。享年66歳。
もっともっと生きていてほしかった。
喧嘩をしたり、金輪際口をきくものかと冷たくしたり、いろいろあったけれど、いつだってそばにいてくれたのは、‘あなた’。
これから一緒に旅行したり、おいしいものを食べにいったり、まだまだやりたいことが山のようにあったのに、どうしてさっさと逝ってしまったの?
肺腺癌はタバコが原因ではないそうだ、とあなたは弁解がましく言っていたけれど、ヘビースモーカーでなかったら、新薬をつかうことができたそうですよ。
結果はどうあれ、もっと治療の幅が広がったのにと思うにつけ、残念でなりません。
それでもあなたは今頃あの世で「好きなタバコをやめられるものか」と、うそぶいていますか?