2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる
入賞作品 |
3位 天辰 芳徳 様 四十二歳の死に学ぶ
Nさんと私は醤油製造会社の先輩と後輩の間柄だった。当時、Nさん四十二歳、私は三十六歳。Nさんは、いわゆる痩せの大食いというタイプのひとでいつも食欲旺盛だった。が、入社三年目の七月、私といっしょに能登半島の得意先回りに出かけたとき体調不良、食欲不振を訴えた。
四トントラックに醤油を満載しての一泊二日の配送。二日間行動を共にする。一日目の昼食時、いっしょに食堂で食べていて、はて、と私は驚いた。注文した大好きな豚肉のしょうが焼きにほとんど箸をのばさないのである。どうしたのかと聞く私に、腹のなかがいっぱいで何も入らんと辛そうに答えた。ほとんど食べていないのに腹のなかがいっぱいとは・・・・・・。
真夏の太陽の下、朝から夕方まで大汗を流して働き、民泊を決め、一風呂浴びて、いざ、ビール! が、Nさんはコップに半分しか飲まなかった。酒豪のNさんがどうして? ただならぬことがNさんの体のなかで起きているのだと知った。
能登半島から帰って来て二週間ほどが経(た)った頃、市内の配送をしていたNさんは突然、胃のあたりに異変を覚えて病院へ駈け込んだ。その日、内勤作業をしていた私は、先輩従業員たちといっしょに休憩室で休んでいた。そこへ、女社長が入って来た。女社長は老舗の三代目でお嬢さん社長と言われていた。
「さっきまでトラックで走ってたひとが、病院のベッドでこんな格好して点滴受けてるんやから、私、おかしくて・・・・・・」
笑ったあと、神妙な顔をして女社長は言った。
「胃ガンやといね。あと半年やと」
みんなは押し黙った。あと半年ということは四十二年の人生ということか。以前Nさん宅を訪ねたときいっしょに世間話をしたNさんのふたりの子供のことを私は思った。中学二年の長女と小学六年の長男。ふたりとも明るい子だった。長男は相撲が強く、ある大きな大会で優勝していた。Nさん自慢の体格の良い少年だった。
みんなが黙っているとき、Hさんが涙声で言った。
「酒も飲んどったが、タバコが度が過ぎたわいね」
みんな知っていた。Nさんのタバコの吸い方は尋常ではなかった。フィルターのすぐ近くまで吸うひとだった。ギリギリまで吸うと、次の新しいタバコを取り出し古いタバコの火で新しいタバコに火を点ける。いわゆるチェーンスモーカー。家では奥さんがうるさいから職場や外にいるとき吸えるだけ吸うんやと言っていた。思えば、NさんといるときNさんの口からタバコが離れていることはなかった。
やがて、NさんはA総合病院で手術を受けた。みんなからの見舞金を代表して私が届けに行った。点滴台を引きずりながら、よろける足で待合室へ現われたNさん。二か月ぶりに見るNさんの顔は、まるで般若の面のようだった。待合室の長椅子に腰をおろすなり、Nさんはタバコに火を点けた。タバコは禁止されているのではないかと聞く私に、いや、先生は吸ってもええと言うとるとNさんは答えた。先生の胸の内の辛さを思うと私自身も言葉に詰まった。本人には事の重大さも何も知らされていないようだった。
半ば英雄気取りで、手術に四時間もかかったと言っていた、幼さの残るひとであった。体重三十八キロになってしもうた、朝丘ルリ子といっしょや、と笑っていた。
医師の診断によれば発病は三年前だという。三年前といえば、Nさんが大阪生活を切り揚げて故郷の石川県に帰って来た年だ。小学生の子供ふたりを連れて帰郷し、家を購入し、再就職した年。転校した子供の教育問題、住宅ローンの重さ、慣れない環境。実直ではあるが、不器用で人付き合いが上手ではなかったNさんにとっては、さぞかしストレスの貯(た)まる日々の連続であったのだろう。私が知る限りにおいても女性が苦手だったし、女社長に毎日怒(おこ)られていた。
Nさんの死から私が学ぶことは、たとえストレスを覚えたとしてもその解消をタバコに求めてはならないということだ。より健全な方法でストレスは解消しなければならないということだ。状況に応じて、深呼吸をする、冷たい水で顔を洗う、うがいをする、水を飲む。歩く、走る。私は体を動かすことによってストレスを解消することに日々努めている。そのことがNさんへの鎮魂につながると私は思う。