2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる
入賞作品 |
3位 杉山 紫 様
9月末の早朝だった。
突然ドンと大きな音が家中に響き、眠っていた私ははね起きた。離れたところから母の叫ぶ声が聞こえる。かけつけると父が床に倒れており、仰向けになった状態で苦痛に顔を歪め、何かを言おうとするように口を動かしていた。それが父のとった最後の行動だった。兄たちが必死に人工呼吸や心臓マッサージをほどこしたが、その甲斐も虚しく、父の意識は二度と戻らなかった。
死因はクモ膜下出血だった。
父は日ごろからタバコをよく吸い、庭に置いてある灰皿はいつも吸殻の山ができていた。それで死期を早めたのは誰が見ても明らかだった。
某携帯電話の会社で管理職についていた父のもとには、方々の部署から追われた人たち—要するにその仕事が相応しくないと判断された人たちが多く回されてきていた。
「やる気のない人間をやる気にさせることは一番大変な仕事だ」
気晴らしにお酒を飲んで、タバコを吸いながら、父はよくそう漏らしていた。
「世の中そんなに甘いものじゃない」
それが生前の、一番の口癖だった。
倒れてから救急車で病院に搬送され、医者から伝えられた一言は
「助かる見込みは1%です。覚悟してください」
それは助からないと言われるよりも残酷な言葉だったように思う。脳の働きが失われても、肺に空気を送り、心臓を機具で動かせば父の身体はそれでも、正常に脈打っていた。ただ眠っているようにしか見えなかった。
「お父さん」
問いかけたがしかし目を開けてはくれなかった。
身体が衰弱して死に至る直前までの間、私は病院に行くことができなかった。家の留守を誰かがあずからねばならなかったという理由もあったが、この突然の非現実的な状況を受けいれることができなかったのだ。医者の言った1%の望みが本当に叶うとも思っていなかったが、それ以上に、父が倒れたという事実がどこか遠い場所での出来事のように感じられていた。そんな作り話のようなことが自分の身にふりかかるはずがない、と。
いよいよ心停止が間もないと医者から告げられたとき、私は兄の運転する車で市民病院まで向かった。
2日ぶりに見る父はもう生きている人間の姿ではなかった。
肌は黄色く、唇は沈んだ紫色・・・ それを目の当たりにして
「ああ、本当に死んでしまうんだ」
と、ゆるぎようのない実感が私を襲った。
結局、父は倒れてから2日後の夜に息をひきとった。
静かに看取ることだけがそのときにできるすべてだった。
父がそうしてこの世を去ってからじき8年になる。
当時の私は高校2年生—16際という年齢で、その頃はほとんど父との会話はなかった。酔って帰ってくる父は普段以上に話が通じなかったし、共通の話題なんて探しても見つからない。タバコを吸っているときは臭いがうつるからあまり近寄りたくなかった。父が亡くなった後、最後に何の会話をしたのかさえ思い出せず、それだけで悔しくて泣いた。
今になって話したいことがたくさんある。
社会人3年目になって、今なら話せることがたくさんあるよ。
会社の愚痴だって聞いてあげることができる。
だけど父はもうどこにもいない。
気持ちに行き場がなく、ずっと空をさまよい続けている。父の死から数年経っても、ずっと。
「世の中そんなに甘いものじゃない」
それは本当にその身をもって教えてくれたけど、でもこんな別れ方は誰だって望んではいなかった。
健康を害することは誰にだって簡単にできる。何も語らずに逝ってしまうのは美徳でもなんでもない、ただの無責任に過ぎないのだということを残される側になって初めて知る。
お酒やタバコは目先の鬱憤を晴らすのに手っ取り早いのかもしれない。だけどそこから引き起こされるのは、より深い哀しみかもしれない。あの倒れたときの音は今でも私の耳にこびりついて離れずにいる。
生きてくれていたら、と私はこれからもずっと考え続けなければならない。それがどんなに虚しいことであっても。こんな思いをする人間は他にいなくてもいいと、切に思う。
それがいま避けられることなら、なおさら。