2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


入賞作品

3位 西島 政江 様 「遺影」


 先妻を病気で亡くして8年、悲しさが癒えた時、やっと周りが見えてきたという、その妻との愛と苦悩の二十四年間を熱く語っていた。彼の話を聞きながら私も又辛かった過去を思い出し、涙を流していた。これからの人生を幸せに過ごさせてあげたい、そして私も回り道をした末につかんだ愛を「神様からのプレゼント」と大切にして生きていこうと誓い合っていた。彼はビール、ウイスキーを好みそれまでの寂しさを紛らしていたという。それにもまして大好きなハイライトを切らしたことはなかった、彼はヘビースモーカーだったのである。共に生活するようになり、日々不安にかられるようになったのは、毎日溜まる灰皿の吸殻を片付ける時である。「こんな幸せが自分に来るとは思っていなかった、俺は幸せだ」と言う言葉を背中に聴きながら、私は不安を募らせていた。ある日思い切って言ってみた。「この幸せがずっと続くといいね、でもひとつだけお願いがあるの、煙草かお酒かどちらかやめて欲しいな、お互いに元気で長生きできればと思うから」彼は笑いながら「お酒と煙草は俺の生き甲斐だからやめられないよ」「私とどっちが大切?」 「比べることがおかしいよ、お前はお前で大切に決まっているじゃないか」「だったら私の言うことも聞いて欲しいな」いつもは優しい眼をして話を聞いている彼が、一瞬険しい表情になったのを私は見逃さなかった。それが彼の一番触れられたくない部分だったのかもしれない。ある日のこと、数杯目の水割りを口にした時、思わず私は口を滑らせてしまった。「まだお酒飲むの?煙草もほどほどにして欲しいと思っているのに」すると彼は窓を開け、いきなり呑んでいた水割りを庭に捨て、黙ってしまった。やっと幸せを掴んだのにと思っていた私は悲しくて涙がこぼれてきた、そのまま外に飛び出した。海を見ながらずーっと泣いていた。泣くだけ泣いたら心が決まった、もうこんな辛いことは言うまい、彼が喜ぶことだけを考えていこう、そして今まで通り楽しく過ごそうと。今思えばけんかしても何しても止めさせればよかったと思っているが、夫婦の歴史が長くない私は自信がなかった。この事が後に辛く悲しい事になるという事を、その時はそれ程感じていなかった。私達は思い出をたくさん作り、残された人生を楽しかったといえるようにしたいと思い、年に1度の贅沢な旅を楽しみにして働いた。忘れもしない1999年9月9日早朝6時、新車のエンジンも軽やかに主人の運転で私達は萩、津和野へと快適な旅を続けていた。小郡に着き車を駐車場に入れ、念願のSL山口号に乗り込んだ。汽笛と黒煙に子供のようにはしゃぎ写真を撮りまくった。途中下車した駅でSLをバックに嬉しそうに、煙草を吸う穏やかな主人を見てこれでいいのだと自分なりに納得したのである。萩の一日それは楽しいものだった。二人で貸し自転車に乗りよろよろしながら街中を走った。そして萩の夜は静かに過ぎ、次の目的地秋芳洞に向かった。鍾乳洞の中に入るとそこは別世界。ひんやりとして、薄明かりの中に光る濡れた岩肌がぬめぬめし、雫が時折湿った音を立てて落ちていた。鍾乳洞を見ながら私は夫と来ていることをしばし忘れるほど感動していた。しばらく歩いた所で突然夫が「もう外に出よう」と言った。まだ奥に進みたいと思っていた私は少しがっかりしたが従った。外に出た主人は大きく息を吸い込んで、「胸が苦しくてね、御免ね」と、私が不満顔だったのを見てすまなそうに言った。「又ゆっくり来ようね」と、しかし何故か私は思った。もう来ることはないのではと。鍾乳洞を出て秋吉台を走る頃は主人の気分も爽やかになり、ススキの穂が風になびいて心地よく、二人は旅を満喫していた。今にして思えば幸せの絶頂だったといえよう。しかし私の心は一抹の不安が残っていた。運転を私に替わり、アルコールが入った夫は助手席でかすかないびきをかいていた。カーラジオでは台風の到来を告げていた。暗雲が立ち込め風も出てきたので早めに宿へと急いだ。翌日は台風も去り、出雲大社でこの幸せがいつまでも続きますようにと祈り旅は終わった。その年の秋はことの他忙しく共働きの私達は旅の余韻を楽しむこともなく過ぎた。気になりだしたのは暮れになった頃だ。主人の風邪の治りが悪く、病院嫌いにしては珍しく薬をもらってきて飲んでいたのに気づき、「レントゲンは撮っているの」と聞いたが「そんなのは撮ってないよ、すぐ良くなるから」の言葉に看護師の私は愕然とした。年の明けるのを待って大学附属病院に行った。危惧していたとおり、精密検査の必要ありと次々と検査の予定が組み込まれていった。私には何を疑い、何を目的としているのか容易に判断できた。段階を追って検索していることに従わざるを得ない事がもどかしかった。そして湧き上がる不安から逃げたくて悪い方は信じないようにしていた。検査は3週目に入った。精密検査で気管支鏡による肺の細胞診をした結果、「ご主人の病名は早期の肺癌です。今からすぐ治療を始めましょう、小細胞癌なので放射線、外科手術は適応では無いので抗がん剤の治療になります。本人に告知をしましょう」聞いていた私は自分でも驚くほど冷静に受け止め「お願いします、後のフォローは致します、看護師ですから」それまで隠していた職業をはじめて医師に告げた私は、夫の専任看護師になろうと心に決めた。それまでの私は何があろうと何が犠牲になろうと仕事を優先してきた。その私が心から夫の為に尽くそうと思った瞬間であった。入院した日、夫はベッドに座り弱々しく、しかしはっきりと「お母さんの言うことを聞いていればね」の言葉を、私はとても重く受け止めた。あれほど喫煙を嫌った私に対しての思いやりだったのか。自責の念に駆られ辛かっただろうと思い、私は精一杯の優しさでしっかりと主人の目を見て言った。「二人で頑張ろうね、大丈夫、これからが私の出番だからね、絶対に治して見せるからくよくよしないでね」入院して四日目あたりから酸素を流しながらも、「玄関まで送りたい」と言う彼を、部屋に残してあふれる涙のまま車に乗り込み病院を後にした。治療を翌日に控えた午後の入浴時、その大きな背中を洗いながら、私も又汗と涙を流すだけ流し、言葉は無いが二人の絆は一層強くなったことをお互いに感じていた。短い時間であったが夫の目にもきっと涙が溢れていたのだと思う。浴室の鏡が湯気で曇り私たちの胸の内をそっと隠してくれた。抗がん剤治療の日、私は職場を休み夫の病院に向かった。もうすでに点滴をされ治療は始まっていた。「頑張っているじゃん。眼を瞑っていると楽だからね」私はわざと明るく言った。点滴の腕をさすりながら、私は自分がされているような感覚になっていた。気がつくと静かに寝息を立てて主人は眠っていた。そっと離れた私は、病院の近くの神社に行き、手を合わせて神様にお願いをした。「私のパワーを主人にあげてください」と心から祈った。病室に戻り夫の手を握るとじっとりと冷たい汗が伝わってきた、それは今までにない感触であり、抗がん剤の威力に私は恐怖を感じていた。やがて看護師さんの「終わりましたよ、静かにお休み下さいね」の言葉で治療が終わった。 「明日一番に来るからね」と言葉を残し家路についたのだが、途中後ろ髪を引かれるような強い気持ちになり車を止めた。それは虫が知らせるという現象だったのかと思う。
  夜が明けるのを待ちわびて職場に急ぎ休暇の願いを依頼している時、病院からの夫の急変を知らせる電話が・・・その時はまだ命に関わることがおきているとは思わなかった、と言うより思いたくないという気持ちが強かった。しかし電話の向こうからは看護師のあわてている様子が伝わり、私の心臓は早鐘を打っていた。
  病室に入る前からただ事ではない様子に想像がつき、モニターを見ると血圧40を知らせていた。まさにショック状態である、私は夫に駆け寄り手を握り、「どうしたの?大丈夫だからね」と自分に言い聞かせるように大きな声で「頑張れ、頑張れ」と言っていたように思う。夫はその声でかすかに眼を開け、うなずいたように見えた。私は「先生、助けて下さい、この人を今死なせるわけにはいかないんです、苦労してやっと幸せになったんですから」と、主治医に哀願した。その言葉だけは今もはっきり覚えている。無駄と知りつつ看護師を押しのけ人工呼吸をし、すべてをかなぐり捨てて絶叫していたという。モニターの波形が空しく直線を描きやがてすべてが終わった。夫は逝ってしまった。
  悔しく悲しく辛い思いだったが末期の肺がんの壮絶さを知っている私は、せめてあの苦しみだけは夫が避けられたと思う事にしたら心が軽くなった。治療を信じ、看護で奇跡を起こそうとしていたのだがかなわなかった。告知された時の驚き、不安で頭が真白だったと夫が友人に話していたことを後から聞き、どんなにか悔やみ、辛かっただろうと今でも思い出すたびに胸が苦しくなってしまう。

  野や山はあなたの大好きな季節です。山菜を採ってきては私の為に調理し
  てくれましたね、金目鯛の煮つけは絶品でした。あの味は私には出せない
  のです、釣りたてのイカ刺しでもう一度乾杯をしたかった。

 あれから8年、最後の旅になった津和野にはまだ辛くて行けないが、あのSL機関車の前で撮った穏やかな笑顔が “遺影” となった。手にした煙草がかすかに写っている、そこから紫色の薄い煙が漂ってきたような気がした。だがそれはきっと一輪挿しの都忘れの紫色のせいだったのかもしれない。