2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


入賞作品

3位 松 なおひと 様


 グラスの中で記憶に沁みる氷の音が響いた。娘さんだろうか、わたしの目の前にいる痩せ型の紳士は、その女性の話に終始にこやかな顔で頷いている。時折、節太で毛深い彼の指が、グラスの淵を叩いてはウイスキーをゆっくりと口へ運ぶ。顎を上げて飲む時も、彼の眼は細く穏やかだ。彼は、わたしの記憶に儚く残るあの人に、とてもよく似ていた———。
 

 わたしがバーテンダーの修行を始めたのは一九歳の夏だった。浪人して再度挑戦した大学受験に失敗してしまったわたしは、半ばやけくそになって酒を浴びる生活に甘んじていた。
 ある日偶然立ち寄った酒屋で酒を物色していると、やたらと酒を買い込む男を見かけた。男は真剣な表情で、酒を一本一本吟味していた。よほど酒が好きなんだな、そう思ったが、それ以上に興味は湧かなかった。
 貧乏だったわたしは一番安いウイスキーを一本選ぶと、レジで会計を済ませた。
———昼間っから飲むのかい?———
 朝から降り続いている小雨の中へ一歩足を踏み出した時、突然背後から声をかけられた。その声はあまりにも擦れていて、語尾は小雨の音にさえかき消されそうだった。
 ゆっくり振り向くと、擦れた声の主が目の前に立っていた。先ほどの男だった。
———もしよかったら、うちの店へ来ないか? あ、いや勿論ぼくがおごるからさ———
 擦れた声で男は笑った。わたしと大泉さんの運命的な出会いだった———。
 その日を境に大泉さんのお店へちょくちょくと出入りするようになった。大泉さんのお店はこの辺りではかなり有名なバーで、地元のとんがった連中はこぞって飲みに来ていた。大泉さんはそんな連中の兄貴分みたいな存在だった。
 大泉さんは、四〇歳を過ぎたばかりだというのに年齢よりもやたらと老けていた。大げさかもしれないが、わたしのおじいちゃんと言っても通じてしまったかもしれない。おまけに身体はガリガリに痩せていて、骨と皮だけみたいだったから余計だ。ちゃんと食事はしているのか尋ねると、俺は独身だからな———、と訳のわからない返事で笑っていた。
 大泉さんはバーを経営していたのに、彼がお酒を飲んでいるところを一度も見たことがなかった。あんなにお酒のことが詳しいのに、お酒を飲めないなんて事があるのだろうか・・・・・・。そう思ってある日わたしは、酔った勢いで大泉さんに根掘り葉掘り失礼な事を訊いてしまったことがあった。
———肺に穴が空いてるらしい。肺気腫って病気(やつ)だ、みんなには内緒だぜ———
 大泉さんは少しだけ翳りのある瞳を宙に泳がせた。
———実は酒もたばこも医者から禁じられてんだけどね———
 銜えたばこで、時折苦しそうな咳をしながら大泉さんは笑った。
 たばこは止めたほうがいいですよ———。わたしは真剣に忠告した。そう、何度も何度もしつこいぐらいに・・・・・・。


———おまえこの店手伝わないか? 毎日ぶらぶらしてても仕方ないだろ、どうよ?———
 梅雨が明け、叩きつけるような太陽の日射しが肌に痛い八月、いつものように昼間からビールを飲んでいるわたしにヤニ臭い大泉さんが突然言った。
———あんまり給料は払ってやれないけどよ———
 時に言葉は、人生を大きく左右する事がある。あの時大泉さんのこの言葉がなければ、今のわたしは無かったかもしれない。
 その日からわたしは客ではなく、大泉さんの弟子となった。毎日、ボトル拭きや掃除、シルバー磨きなどの雑用に明け暮れたものの、自分なりに充実した日々が続いた。休みの日も店へ行っては酒を飲み、大泉さんのテクニックを盗もうと努力した。
 大泉さんは本当に色々なことを教えてくれた。その全てが今のわたしにとって貴重な財産となっている。最近ではあまり行かなくなったが、あの頃は他所のバーへ飲みに行くと、決まって大泉さんから教わった事をそこのバーテンダーと比較した。そしていつも大泉さんの偉大さを実感したものだった。


———悪いけどおまえさ、明日一日だけひとりで店やってくんねえかな・・・・・・———
 お店で働きだしてから半年以上が経った、早春のとても寒い日だった。紺色のPコートにグレーのニットマフラーをぐるぐるに巻いた格好で現れた大泉さんは、いつもとは違い何か精彩を欠いていた。珍しくたばこも銜えていなかった。
———検査入院するんだよ。あ、だけど一日だけだからさ、本当は店を休んでもいいんだけど・・・・・・。でもな、いま折角おまえが頑張ってっから———
 窓の外に広がる、今にも泣き出しそうな曇よりとした空は、大泉さんの言葉を余計悲しそうに響かせた。
 その翌日、わたしは言いつけ通りひとりで頑張ってみた。もちろん大泉さんのようにいく訳はなく苦労が絶えなかったが、それでも何とか乗り切った。
 しかし仕事が終了しても、忙しさの余韻に浸る事や、責任を全うしたという充実感などは無く、昨日の大泉さんの言葉がずっと頭の中を支配していて、ただひたすら言いようのない寂しさに包まれていた。
———悪かったな、大丈夫だったか?———
 次の日、いつものように店へ顔を出すと、普段と変わらない大泉さんが笑っていた。慌てて検査結果を尋ねると、来週にはわかると言われた。心の奥に小さなとげが刺さっている感じだったが、きっと何でもない、わたしはそう思う事にした。
 しかしホッとしたのも束の間、翌週になって検査結果を聞きに行った大泉さんが、浮かない顔を手土産に店へ帰ってきた。
———ったく、再検査だってよ・・・・・・。春休みが始まってこれから忙しいっつうのによ———
 相変わらずの銜えたばこで、大泉さんは舌打ちした。
———また明日検査に行かなきゃなんねえから、頼むな———
 これがお店で聞いた最後の言葉だった。
 
 ———お話があります———
 桜が麗しい川沿いの土手に呼び出された。大泉さんより四歳年下の妹、マミコさんだった。大泉さんの代わりに店を切り盛りしていたわたしに、その前日、彼女から電話がかかってきた。
 初めてお会いしたマミコさんは、大泉さんとは対照的にとてもふくよかな人だった。とりあえず挨拶を交わすと土手の中ほどに二人で腰をおろした。風が柔らかに流れた。
 マミコさんは話を切り出すでもなく、まるでわたしの存在など無視するかのように、しばらくの間ちろちろと流れる川面を眺めていた。しかしあまりにもその時間が長かったので心配になり、わたしから話を切り出した。
———兄は肺がんなんです・・・・・・———
 あの日、初めて聞いた大泉さんの声が蘇った。マミコさんの声は川の音に飲み込まれるように静かに消えていった。
 わたしはお店を辞めた。いや、辞めたというよりも出来なかったと言った方が正しかった。もう仕事は続けられません———、そう書き置きしてわたしはお店を去った。


 それから三か月ほど経った梅雨の中休みのように爽やかな日だった。その日は新しい就職先を探すため、面接へ行く事になっていた。着慣れないスーツに袖を通していると、電話が鳴った。マミコさんからだった———。
 電車に乗り継ぎ、メモした住所を手に急いだ。駅で降り、坂道を走った。若かったし、気がせっていたので疲れなんか覚えなかった。周りの迷惑も顧みず、わたしは走った。そして病室のドアが目に飛び込んだ。
 静まり返る病室には、わたしの荒い呼吸だけが響いていた。こめかみは鼓動ではち切れそうだった。ドアの前で行き場を失ったように立ちつくすわたしに、ゆっくりと立ち上がったマミコさんが手まねきをした。わたしはその手に引き寄せられるように足を進めた。
 わかっていた。わたしにはわかっていたのだ。マミコさんに大泉さんの容体を告げられた時からこの日が来る事を・・・・・・。
———お兄ちゃん、マツモトさんがいらしたわよ———
 マミコさんの呼びかけに大泉さんがゆっくりと薄目を開けた。しかしその目は天井を見据えたままだった。
 大泉さん!———。心の中できつく叫んだ。意志とは別に涙が滴り落ちた。幾度かのマミコさんの問いかけに、意識を吸い込んだように大泉さんがわたしの方を見てくれた。
 大泉さんは口を歪め、何かをわたしに伝えようとしていた。しかし結局それは声にはならなかった。大泉さんの目には濡れたものがうっすらと光り、瞼を閉じた時それは涙にかわった。


 斎場を出る前、受付に設置された長椅子に座って少しだけマミコさんから話を聞いた。わたしが店を辞めてしまってとても残念がっていた事、もうわたしとは会えないのかと淋しがっていた事、出来る事ならば店を継いで立派なバーテンダーになって欲しいと願っていた事など、マミコさんが見舞いに来る度いつもわたしの事ばかりを話していたと言った。
 溜息とともに生きる気力までが抜け出てしまうようだった。何故あの時大泉さんの店を守ろうとはせずに逃げてしまったのだろうか。大泉さんの店を守るのが、わたしの最大の使命だったはずなのに・・・・・・。後悔に果てはなかった。
思い起こせば葬儀の一年ほど前、わたしは大泉さんと出会った。わたしは思う。あれは偶然だったのではなく、きっと自分の未来を予感した大泉さんがわたしを探しに来てくれたのだと。自分の後継者を探しに、あの酒屋へ来たのだと。
 あれからずいぶんと長い月日が過ぎた。今わたしはバーのカウンターに立っている。ここは大泉さんのお店ではないが、ひとつだけ大泉さんの期待に応えるべくわたしは、バーテンダーの道を選んだ。今ではこれが天職だと実感している。
 バーといえばたばこがつき物———というのは昔の話で、近頃では禁煙のバーも増えている。もしかしたら年内には県内の公共施設全てが禁煙となるかもしれない。わたしは強くそう願っている。
 今、目の前の痩せた男とその連れが席を立った。入口まで二人を見送る。ドアが閉まった時、ほんのりとヤニのにおいが香った。背後で氷の音が小さく鳴った。わたしはカウンターを振り返った。