2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる
入賞作品 |
2位 柳 徳子 様 ひまわりのような義姉
「うわーっ、きれいな人。」
「本当に、あなたの姉さん?・・・」
「そうだよ。俺がハンサムでないから、異母姉と思ったんかよ。」
「ア、ハハ、ごめん、ごめん。」
昔、独身の時、ミスコンテストがあって、推されて出場、入賞したので、ゆかたの発表会とか、祭りの接待役に頼まれると聞いてはいたが、なるほど、と納得。
『いずれがあやめか かきつばた』とか『立てば しゃくやく すわれば ぼたん 歩く姿は 百合の花』等、美人を花にたとえたことばがあるが、それとはちがう、庶民的な明るさとさわやかさは、ひまわりのイメージでした。
共働きの私達に、主婦専業の義姉が娘の下校後みてくれて育ちました。私より義姉をしたって「ママ、ママ。」となついていました。
二月
「千葉の海岸、鯛の浦ドライブ、行かないけー。」義姉夫婦にさそわれました。
如月、千葉は早春、梅のつぼみがふくらみ、水仙がさき、なんといっても、海なし県に住んでる私達にとって、海はあこがれなんです。
当日、義姉の次に、車がすき、ドライブが好きという義兄が運転、助手席は義姉です。
ところが、義兄はヘビースモーカー
なんと、おどろいたことに運転しながらもタバコをすうのです。
窓をあけてほしいのに、車の中は暖房。
鯛の浦に着いた時は、ほっとしたのと、頭痛と吐気、酔ってしまって、昼食の食欲もなかったのです。
娘も同様、二人して、平静をよそおうのに必死でした。
義姉は免疫がついているのか、さわやかにふるまっていました。
帰りはとにかく、鼻と口をハンカチでおおい、ねたふり、死んだふりで、後部席で、ちぢこまっていました。
降りて、お礼をいいながらも、もう二度と煙幕のドライブは不参加だと、心にきめてすごしました。
ある日、突然「字が乱れて書けない。」と、商売の事務を手伝っていた義姉が、領収書をほっぽり投げたという情報。
そして、病院で肺癌の宣告、それも末期。
「どうして義姉が、タバコをすわない義姉が?」でも、すわなくても対流吸引、環境でなることを知って納得しました。
原因は、ヘビースモーカーの義兄だと、とっさに思ったものでした。
癌センターに見舞いに行ったら、嬉しそうに、「今日は、主治医の先生が車椅子にのせてくれ、廊下を一周してもらった。」と喜んでいました。
「へエー、美人はとくだねえ。先生が車椅子で廊下一周してくれたなんて、聞いたことない。撮影会でもあったのうー。」といったら、
「ウウン、ちょっと、メソメソしちゃって」
と、そして、気をとりなおして、
「病気になって、患者の気持ちわかったから、身内で病人がでたら、私がみてあげるから。」と、笑顔でいってました。
たなの上に、かつらの箱がありました。
あれから、退院して、再入院する日、洋ダンスの中から、喪服をポンと私に投げ、
「着てくれる。」と、ふりかえりました。
物を投げる人ではなかったのに。ことばをかえされたり、遠慮されると困ると思ったのか、キャッチボールの受けとりでした。
それが遺品になり、すぐに着ることになりました。まもなく、
病院から遺体でもどりました。
なんと義兄は、その枕もとでタバコをすっていたのです。
灰皿の山をみて、「おにいさんが殺したんじゃない。」と叫びたい気持ちでいっぱいのつやでした。
義姉、享年五十八歳でした。
その後、あとを追うように、義兄もトイレで亡くなったのです。
検死もあったが、病名は肺気腫、顔がだるまの様にはれ、呼吸困難におちいり、タバコが原因であったとのことでした。
もてはやされた義姉も、十七年もすぎ、家の中も、お墓も、ひっそりとしています。
でも、私の心には、いつも生きています。
ありがとう、お義姉さん、二人で義兄にタバコやめてもらう様、懇願すればよかったのにネエ。
私は、あなたの弟の夫とすごすこと四五年。
少しタバコをすってた夫も、手術をきっかけにやめて、十年、元気ですごしています。
今日も二人で、夕日を眺めています。
夕やけは、お義姉さんの様な気がして!!
追記
かわいがって育てていただいた娘二人、
どちらも、タバコすわない人を選び、なんとかやっています。