2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


入賞作品

2位 Phil. U(フィル・ユー) 様 遺形


 家族揃って出掛けた記憶なんて残ってない。
 けれどね、皮肉にもみんなが初めて一台の車に乗ったのは、火葬場からの帰り道。骨だけになったあなたを母が抱いて・・・。
 人一倍おしゃべりだったくせに、誰よりも寂しがり屋なのに、逝く時は何も言わず独りこっそり苦しんで、瞼を閉ざした父。似合いもしない花に抱かれ、好きでもない香に包まれ、長方形の木箱に横たわった。あの表情は忘れられそうもないよ。険しい想いが築いた眉間の皺。その胸に手を当てて、本当に聴きたいのは鼓動の音。せめてその気持ちが聴こえたらいいのにね。静かに冷たく眠るばかりだった。こんな風に触ることなんて一度もなかった。白髪の増えた頭を撫でて、近くなったはずの身体の距離が、永遠の別れを実感させていた。
 そしてあなたは炎の列車に乗り、空へと旅立った。壺に収まってしまう、幾つかの破片だけを遺して。
 葬儀の日程を全て終え、僕は車で母や兄弟たちをそれぞれ駅や家に送った。一人になった途端、涙腺をきつく結んでいた紐が切れた。六人もの子供を育てるのは、並大抵の苦労じゃなかったのだろうなぁ。今更ながら、感謝と謝罪の念がぼろぼろとこぼれた。悔いていることや忘れたいことが、頭の中で混じり合って壊れそうだった。嗚咽を洩らしても、鼻を啜っても、溢れてくるばかりで視界は滲んだ水彩のように。
 思い返せば“結核”と診断されてからの三年間は入退院の、と同時に喫煙と禁煙の繰り返しだった。常時くわえているようなヘビースモーカーだった父。とはいえ、入院中は吸えるはずもなく仕方なく禁煙となる。そのお陰で体調が回復し、一時退院となる。だが医者からは駄目だと言われても、自宅療養中となるとまた当たり前のように紫煙をくゆらせていた。苦しそうに咳をして、左手で胸を押さえながら、右手を煙草の箱に伸ばす毎日。絡んだ痰を吐き捨てる余力も無い背中。痛みに歪む顔を見ているのが辛かった。
 肺が悪いと分かっているのに、喫煙をやめない矛盾が非喫煙者の僕には理解できなかった。だから何度もそのことで衝突した。ただ純粋に早く完治させて欲しかっただけだった。しかし、父にしてみれば五月蝿い息子だったのだろう。真剣だったからその気持ちをぶつけてきたけど、頑なに「これくらいしか楽しみが無い」と言い張った。得る物のない論争はエネルギーばかりを消費する。やがてその仲は険悪になり、僕らは会話もしなくなった。それからまた、だんだんと病魔に蝕まれていった父。
 歴史に“If”は存在しないのだけれど、もっと根気強く、説得すればよかった。そう思わずにはいられない。僕は面倒ごとを避けただけじゃなかっただろうか。父の気持ちを変えられなかった、力ない自分が嫌になった。
 今頃、悲しいくらいに愛している事実に気付いて、呻くように願い空を仰ぐ僕がいた。「ありがとう」「ごめんね」贈りたい言葉は届いただろうか?
 父が亡くなったあの日から、八ヵ月が経った。長兄と末弟の年齢差がちょうど一回り違うからか、住んでいる場所が離れているせいなのか、それまでは兄弟同士の交流が殆どなかった。だがあれ以来、それぞれ連絡をよく取り合うようになった。それで一つ分かったことがある。
 父は生前、僕が自立して家を出る時に実家の鍵を渡してこう言った。
「鍵は必ず持っていきなさい。ここはいつだってお前たちの家だから、帰りたいときに帰ってきなさい」
 兄にも弟にも同じようにそうしていたのだと。
 親の愛情が沁みて、ふと過ぎった。それはどこかの詩人の一節『名前とは親から最初に贈られる、この世で一番短い詩だ』
 もうすぐ初盆がある。既に日程も決まっている。また家族で集まったら、父の昔話をたくさんするつもりだ。そしてその光景を是非、父に見て欲しいと思っている。僕らは仲良く元気にやっているよって。
 でもね、今も考えるたびに唇噛まずにいられないよ。身体を壊してもやめられなかった、大好きな煙に自らなってしまった・・・父さん。
 ねえ、聴こえるかい— —。