2008年「タバコ:あの人にもっと生きてほしかった」コンテストのページにもどる


入賞作品

2位 長谷 信江 様


私の夫は昭和十一年二十歳で今はありませんが徴兵検査を受け、半年後に蘆溝橋事件で征き、その後支那事変、昭和十五年二十四歳で戦地から還つて来ましたが、三ヶ月後の昭和十六年に又々大東亜戦争が始まり戦地へ行きました。昭和二十一年八月に敗戦となり、軍人としての務めはとかれましたが、十年間はほとんど軍隊の生活でした。多くの友は戦死しました。最初の軍隊生活の時に煙草の配給があり、吸ひ始めたと言つていました。復員してからは製氷会社へ勤め健康で真面目に働いていました。そんな時に私は嫁ぎました。二人の子供が出来て、夫は子供の成長を楽しみに一生懸命働いてくれました。二人共歯科の方に進み、今も歯科の仕事をしています。孫も出来て、五十八歳で運転免許を取り、定年後は二人で行きたい所へ行き楽しい日々でしたが、夫は運転しながら煙草を吸ふので、雪の降る寒い日でも私は車の窓を開けて外を見ていました。煙草を吸はないと良い男だがな・・・と思ひました。申し分のない生活でした。だが、夫はいつも咳をしたり黄色い痰を出していました。痰が出て咳もひどいので、その上少し歩いても胸が苦しいし息づらいと言つて病院へ行きました。医師は「煙草が原因の肺気腫です」と言いました。肺気腫の病気つて今迠に聞いた事もないので、医師に詳しく聞きました。その場で医師は禁煙を申し付けましたが、夫はなかなか禁煙できず、うるさく言ふ私が外出すると煙草を吸つていました。家に帰つて部屋が煙草くさいので何時も夫婦喧嘩がたへず、困り果てました。何度も言ふと、「お前が悪くなるのではない。死ぐのは俺だ文句を言ふな」と怒りました。又病院へ行くと医師は「禁煙出来ましたか、禁煙が最高の治療薬ですよ」と再三言はれましたが、夫は禁煙出来ず困りました。一度煙草を吸ふと癖がつき禁煙はむずかしく、息苦しくなつても煙草を吸つていました。その内に段々辛くなり、一日中酸素の管を離すことが出来なくなりました。運動の為と歩くのですが、少し歩いて立ち止まり、息せくので車椅子に乗せます。携帯用の酸素を付けて車椅子に乗つての散歩なのに、道に落ちている半分位の煙草を拾つてくれと言ふので、私は足ですりつぶしました。公園で煙草を吸つている人に一本くれませんか、と言つた事もあります。私は何で煙草が吸いたいのか不思議でした。今迠私らの為に働いてくれた人だから煙草を吸はせたいと何度も思いましたが、実は私にかくれて夫は煙草を吸つていました。私は夫の体が大事なので、医師に禁煙出来る秘訣を教へて下さいとお願いしましたら、医師は「その内にいくら煙草が吸いたくても吸ふ力がなくなり吸へなくなるからしばらくそのままにしておきましよう」と言いました。今の医学では治す薬はないのです。肺気腫の薬はありません。ベッドで動かず横になつている生活です。入浴の大好きだつた夫ですが、湯気の立つ湯舟には入れず何年もシャワーのみでした。少しずつ悪くなり、入院生活になり、病院の入浴は看護士さんに全身をゆだね、手術をする時のように台の上に横になり、二、三人の看護士さんに洗つてもらいますが、すぐ辛くなり「早よ早よ上がる」と悲鳴をあげるので、体がきれいにならなくても浴室から出してもらいます。その時はハアハア言つててとてもパジャマは着せられず、車椅子で病室へ行つてからパジャマを着せました。入浴は辛いからと言つて、こばみ続けました。手も足も動くのですが、手を動かしても辛くなるので髭も私が剃つてあげました。「下手だな」と言はれ乍も段々上手になりました。毎日動かず床の中に居てテレビも見なくなりました。床の中で酸素の管をいつ時も離さず、「トイレ」も室内用の物をベッドの横に置き、静かにしていても時折発作が起きるので、とても苦しみました。私は夫の背中を撫で乍、こんなに毎日苦しむ程の悪い事をした人ではなかつたのにと思いましたが、みるにみかねる生活でした。病室の空気は流れがないせいか息苦しくなるので、冬でも小さい扇風機で鼻の処に風がいくようにしていました。私は夫に外の空気を吸はしたくて、同室の患者さんには風がいかないように、カーテンを引き窓を少し開けて外の空気を吸はしましたが、同室の患者さんは「寒いがの・・・・」と怒りました。健康な人には想像も出来ない生活でしたので「こうなつた人も居りました」と知らせたいのです。二人の子供は忙しいあい間に見舞に来て背中を撫でていました。息子は眼をうるませながら、やせ細つた夫の足を撫でていました。娘はいつも夫の好物を持つて来てくれました。孫らもよく来て撫でていました。正月が来ても自分の誕生日が来ても欲しい物はないと言いましたが「息のしやすくなる機械が何処かにあつたら買つて来てくれ」と言いました。そんな機械はないのです。五十余年夫婦として生きてきた私ですが、何とかして少しでも楽にしてあげたいと思いますが、何もしてあげられず、唯優しくしてあげるだけ、辛がると背中を撫でてあげるだけ、食べると言ふ物を買つて持つて行くだけでした。ハタハタの魚と巨峰が好きだつたので、動けなくても食べ物で体力が少しでもつけば良いと思い、少しずつ口に入れてあげました。十三年余、動けば息せくので動かず「みじめ」なとても可哀想な生活をして、平成十四年に亡くなりました。亡くなる時に医師は「一日か二日で終わりですから子供さんにも知らせ貴女も覚悟しなさい」と言いました。私はびつくりして、今朝一人で食事したのに何でですかと言いましたが、医師は「人間はもつともつと体を動かさないと体の全臓器がお仕事をしなくなるのです」と言いました。私は夫が亡くなつてから煙草を吸つたから十三年も辛い苦しい生活をしたのだと強く思いました。「越前禁煙友愛会」の人や土田先輩の下で「喫煙と戦おう」と心に決めました。或る日ラジオで青木さんと言ふ人が、鬼が云ふと書いて魂といいます、魂をこめて言ひ聞かせると必ず聞いてくれると言つていました。私は魂をこめて鬼になつて言ひ聞かせよう、どうしても聞いてもらふのだと自分で決めました。煙草の害で息の出来ない、そして治らない病気に一人もならないで欲しいと声を大にして叫びたいのです。どうかわかつて下さい、病気になると自分は勿論苦しみ悲しみますが、両親、子供も妻も本当に悲しいのです。煙草を沢山吸ふと息の出来ない、そして治らない肺気腫と言ふ病気が待つているのです。煙草を吸ひ始めると止めるのはむずかしく、なかなか禁煙は出来ません。最初から煙草は一本も吸はないで、自分の大事な体は自分で守つて下さい、お願いします。